文鳥社とカラスの社長のノート

株式会社文鳥社/ 株式会社カラス のバードグループ代表をやっています。文鳥文庫を売ったりもしています。

「いいね!」は「想像力の欠如」のボタン

「いいね!」しかない空間が気持ち悪い 

これにはタイムリーに共感した。まったく同じ理由で、俺も「はてな」ブログをはじめたところだったから。

Facebookはとてもすごいサービスだと思う。ザッカーバーグも、とても好きだ。Facebookを使うことで、世界中の多くの人が「いいね!」と周りからいわれるような暮らしや活動を率先して行うようになった。しかもそれは、早朝にランニングしたり、旅行にいったり、家で料理を作ったり、それで年に一度の結婚祝いだけは贅沢するような暮らしだ。それにみんなが「いいね!」という。うすくていい関係だ。うん、とてもいい。文句はない。いい世界だ。

 

でもそこにずっといると、違和感を感じ始める。

 

この世界に「いいね!」はたくさんあるけど「面白み」がない。

そのことに気がつき始める。なんとなく「いい空気」がずっと流れている。そりゃ飽きてもくる。だって、人間は本当はそんな緩くてぬるい空気だけじゃいきていけない生き物だから。村上春樹がいってた通り

幸福は一種類しかないが、
不幸は人それぞれに千差万別だ。 
幸福とは寓話であり、
不幸とは物語である。

べつに人の不幸が見たいわけじゃない。でもやはり人の幸福には寓話のようにあるパターン(いくつかしかない)がある。それはある程度の教訓はある。

誰かの強烈な意見、悲しみ、苦しみ、妬み、そんな人には見せられない部分こそ、実は人の興味を引き、ある種の人の心を慰め、癒してくれる。そして俺はその「ある種」の人間なのだと思う。

 

俺はもともと外部に向けて文章を書き始めたのは、Facebookだった。よく投稿していた。多くの人がその投稿を見て、共感してくれて、何人かの人はたくさん熱心にコメントをしてくれた。それはとてもありがたいことだ。そこでは僕は間違いなく「いい人」になっていた。

でも同時に、「なんかおかしいぞ、俺はそんないいやつなのか?」というひっかかりが残っていた。Facebookには、書きたくても書けないことがたくさんあった。 

俺が「はてな」に移ろうとおもったのは、少し前の「学歴論争」がきっかけだった。あの学歴問題の議論が深くなっていく様に、なんだか心がざわざわと踊った。

何が面白いって、何が正しいかはわからないけどそれぞれの立場で本気の意見を述べていて、それに対しても本気で文章で戦おうとしている様に、鬼気迫るものを感じた。思考や立場や文章で戦う姿勢があった。そしておそれらの議論は、Facebookでは触れられることがほとんどなかったように思う。

 

結局のところ「いいね!」は「想像力の欠如」を生むボタンだ。

 

この世界では判断指針が明確だ。そこにはもう既に方向性が定められている。日常的に「いいね!」というボタンというシステムに脳が支配されてくる。

しかもSNSというシステムは「自分にあった人が集まる」場所だ。そりゃ新しい意見も反対側の姿勢もなかなか飛び込んではこない。これはまずい傾向だ。 

 

ずっと言われてることだけど、ここ(はてなみたなブログ世界)には「議論」がある。つまり想像力を養う土壌がある。そこが何よりいい。コンビニ店長がいえば、東大出が返し、腐女子が返す。こんな面白いフィールドはなかなかない。

だからここに「コピーライターの目のつけどころ(ダークサイド)」を作ってみたわけです。(身元も割れてることだし)どれだけさらけ出せるかわからないけど、自分の思考を深める訓練として。

 

すべては想像力の問題だ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イエーツが書いている。 「海辺のカフカ

 

「いいね!」は「想像力の欠如」のボタン。とかいいながら、この記事の下にはちゃんと「いいね!」ボタンが登場するじゃないか、というつっこみは先に自分でしておきます。でわ

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

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