「はあちゅう」という生物について。
「はあちゅう」とは、社会人同期で、彼女が電通に入社した同じ年に、僕は博報堂に入社していた。
まったく面識はなかったのだけど、その頃から「はあちゅう」という名はよく聞いていた。彼女は、東京の都市伝説のように存在した。見たことはないのだけど、なぜかよく耳にする。「女子大生ブロガーで有名なあの子が、電通に同期で入社したらしい」。もういけすかない感じがするじゃないですか。
そんなわけで、僕は「はあちゅう」という生物を「敵視」していた。なにが「はあちゅう」だ、と。失礼な話なのでけど、会ったこともないのに敵視している人はけっこういる。とくに「広告界クリエイター」は嫌いな人だらけだった。よくわかっていないけど、「はあちゅう」は、「あっち側」にいる人だと思っていた。
しかし悔しいことに、「敵視をする」ということは、「無視できない」存在であるということでもある。
だから「はあちゅう」の動向は、なんとなく視界に入ってきてしまう。そのころの電通の人事制度では1年目はクリエイティブにはいけないので、はあちゅうは名古屋に配属されたらしい。何としてもクリエイティブへという一心に努力をして、その冬に東京のクリエイティブに配属されたらしい。そんな電通も3年くらいでやめるのだが、タダでは辞めない。ちゃんと本も出してから辞めているらしい。
そしてトレンダースというこれまた僕がよく分からないイケイケの会社に転職し、いまはフリーで活動しているらしい(すべてうろ覚え)。だんだんと上に進んでいる感じが、 やっぱりいけすかないですよね。
そんな「はあちゅう」から連絡をもらったのは、自分が博報堂をやめて文鳥社を立ち上げたときでした。「文鳥社、はじめました。 」を読んでくれて、会いましょうと言ってくれた。なんだかんだ興味を持っていたので、会わない理由はありません。
そんなわけで、僕ははあちゅうに会いにいった。
渋谷のガパオライス屋さんで会って、ガパオを食べながら1時間半くらい話をした。そのときに思ったことは、
彼女はとても不器用で、とても直向きな人でした。
ということでした。
俺の話し方が下手なときは、遠くを眺めて眉間にしわがよって、顔中に「???」が浮かびあがるからわかりやすい(器用な人はもっとオブラートに表現する)。つまらない話は聞き流すし、質問やツッコミはなんだか手厳しい。俺みたいなちっぽけな人間の中にさえも、全力で自分の何か得られる物事を探しだそうとしていた。短い時間の中で、少しでも成長することを、切実に望んでいた。
不器用で、直向きで、自分が少しでも「前に進んでいる」という実感を糧に生きている人なんだと思った。そういう意味では同類な気がした。
そういわけで、「はあちゅう」像を修正することになってしまった。どこに行っても、器用に立ち回っているあのはあちゅうはどこにもいなかった。
「文章を書いて生きていけるようになりたい」というようなことを彼女は言っていた。小さいころから作家になることが夢だったと。今の時代、文章を書いていきていくなんてことはなかなかできることじゃない。自分には絶対できない。でも彼女はそれをきちんとやっている。
文章を書いて、書いて、書きまくって、様々な最新のメディアを探して、文章をひとに届けて生きている。それは孤独で大変な作業だということは俺だってわかるし、同世代で、これだけ「書いて」生きているひとを僕は他にほとんど知らない。
けんすうさんが書いてたように、彼女は才能よりも、「努力」と「犠牲」を払ってここまで歩んできた人なのだと思う。それ自体がものすごい才能なのだけど。
ランチしたときのことを、こんな風に書いてくれていました。 (なぜか写真がイケハヤさんですが)
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なんてありがたいことだろう。控えめに言って、とても嬉しいことです。
「はあちゅう」は、別の場所で、こんなことも言っているらしい。
「私がどんなに傷ついても悪く言われても構いません。とにかく私の名前が売れればいいので、ブログに書いてください」
この言葉、本当にすごい。普通は、傷つくことを恐れて、何も発信しない道を選ぶ。
はい、書きますよ。謝罪と感謝をこめつつも。「あいつも、はあちゅうの手に落ちたか」と誰かが言っている声が聞こえますが、そんことは些細なことです。今はこれくらいしか書けないのですが、いつか一緒に仕事ができたらうれしいです。
彼女に関してはいろいろな人がいろいろなことをいう。でも結局のところ、「はあちゅう」のことを無視することなんてできない。なぜなら彼女は意思を持って、傷つきながらも前に進もうとする、数少ないひとだから。
ヒガミにやっかみ。妬みや誹謗。どこか遠くから飛んでくる、言葉の石がたくさん降りそそぐ道の中を、傷つきながら努力をし、チャレンジし、前をむいて進んでいこうとする「はあちゅう」という生物に、敬意をいだきつつ、小さないながらもエールを送りたいと思います。
これからも、楽しみにしています。
「経済成長」が、死語になる日まで。
この文章のテーマは何かと言えば、「これからの時代のいいアイデアは、経済を縮小させる」ということです。
この前、ある学生さんから、不思議な話を聞きました。
とある「アメリカの電気自動車メーカー」と、とある「日本の大手自動車メーカー」が提携を解消した理由です。その学生が日本の自動車メーカーの社員から聞いたところによると「電気自動車の生産は、通常の自動車の生産よりも、雇用人数が少なくて済んでしまう。だから、私たちは、電気自動車はつくらないことにしたのだ」と。
学生さんから聞いた話だから、真実かどうかはわからないし、その社員のただの詭弁だったのかもしれない。でもとにかく、こういう考え方が確かに存在している。そして本当に間違った考え方だと思う。働く人を増やすために仕事があるのではない。何かやる意義があるものごとがあるから働く意味がある。
しかし、経済を回すために、社会を成立させるために、雇用を生み出さなければならないということは確かだから、簡単には笑えない。難しいテーマです。穴を掘らせろ、という話です。
例えば、この前フェイスブックで見かけたこのニュース。
大学で傘の共有サービスが普及しているという話。とても良さそうなサービスで、記事のタイトルにもある通り、 世の中には「消費」から「共有」という流れがある。別に真新しい話ではまったくない。
しかし、これをやられると「傘メーカー」は困る。傘の消費が減れば、傘をつくる会社の仕事は激減する。「コンビニ」も傘が売れなくて困る。それは「経済」という魔物からすると、あるまじき行為なのかもしれない。まぁ傘くらいどうってことないかもしれないが、それが車になると大変だ。カーシェアリングが普及して、みんなが必要な時に「借りる」だけでは自動車の利用が少なくなってしまう。日本を支える巨大産業が崩れたら、日本は立ち行かなくなってしまう。
僕は「自転車」が好きだから、都内なんて車よりも自転車をメインにした都市にしたいと切実に思う。車よりも安くて、ガソリンも電気も使わないし、運動にもなる。ガソリンへの依存をできるだけ減らせば、原発に頼る可能性だって少しは減る。でも経済にはきっと貢献しない。GDPは下がるだろう。それも今の「社会」がよしとはしないだろう。
しかし、みんなが傘をシェアする社会をつくり、傘の消費量を減らすことは「社会の成長」ではないのだろうか?
物事が飽和した、豊かなすぎる先進国において、「いいアイデア」は、経済を縮小させる。それは多分間違いない。ロボットだってそうだし、シェアエコノミーだってそうだし、大抵のイノベーションだってそうだ。
人々ができるだけ豊かに生きるために、テクノロジーを進化させてきたのに、「テクノロジーに仕事を奪われる」ことに怯える人々がいる。どうしてだろう?人の仕事が減ったのなら、そのあいた時間を、歌をつくり、絵を描き、夢を追う時間に使えるはずではなかったのだろうか?ムヒカ大統領が言っていることと、まったく同じ話。
10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。
もうね、正しすぎるスピーチなのですよ、これは。ものすごく、正しい。きっと、みんなもそう思うはず。しかしながらこのスピーチが話題になってずいぶんたつが、世界にあまり変化はないように思う。誰も今のシステムに争うことはできないし、それくらい今のシステムは強大で、恐ろしいものだ。僕は今も、iMacでこの文章を書いている。その時点で間違っているのかもしれない。どこかで生産された、電力を使って文章を書いている。
そういう意味で、僕たちは「経済」という魔物の手のひらで生きている。経済は、人間がコントロールできなくなった魔物だ。でもそろそろ、少しずつ、終わりが見えてきた気がしている。 GDPの成長は鈍化し、経済は弱体化しつつある。もしかしたら、それは悪いことではないのかもしれない。なぜなら、僕たちは「経済」を「成長させる」ために生きているわけではないからです。「経済成長」はもう間違った考え方になってきている思う。いつの日にか必ず、「あの時代は経済という魔物に支配された時代だ」と言われるようになる。
ドワンゴの川上さんの言葉にもとても好きなものがあります。
人生の賞味期限について - 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
それで咲いたあだ花は、きっと自分がいなければこの世に存在しなかった花だろう。
そしてぼくは時代を早く進めるのが人類にとって幸せだとはまったく思わない。
傘の話でわかるように、経済を縮小させる「社会成長」=時代を逆戻りさせる成長というものが確実に存在している。だから僕らは、資本主義でもなく、共産主義でもなく、別のあたらしい世界の話をしなくてはいけない。そのヒントは、農業にあると考えているけど、まとまらないのでそれはまた今度書こうと思う。
どれだけ「高級なワイン」よりも、運動した後の「普通の水」のほうが美味しいときちんと知ることや、高価な車を所有することよりも、風と体の動きを感じる「自転車」が大事だと気づくこと。
そういった「次の社会成長」は、次の世代が作らなくてはいけないとも思う。
世代でくくるのは申し訳ないと思うけど、「それ」は次の世代にしか、本当の意味で理解することはできない考え方だからです。自分は今31歳で、どちら側に属しているかはわからない。できれば、次の成長のあり方をつくれる側でありたいと思います。切実に。
まだまだ答えは見つからないけど、必死にその世界を作る道を模索していきたいと思います。
経済成長が、死語になるその日まで。
あらゆる仕事は、次世代の誰かへのエールであってほしい。
カロリーメイト CM|「見せてやれ、底力。」篇 120秒 - YouTube
見てもらえるとわかるのですが、なかなかすごい映像です。何がいいと思ったかと言えば「学生を起用している」ところです。
僕自身が製作に関わってないので詳細は分かりませんが、(きっとそれほど多くはないだろう)お金を払って、学生にがんばって描いてもらっている。そして、学生の技術と才能と努力のアウトプットの場になっている。メイキングに学生のインタビューもきちんと載っているところがすばらしい。きっと資金的にも時間的にも、そういう構造にしたんだと思うけど、きっとそれだけでなく、学生の力を信じて、それが最も最適だと考えたのだろうと思う。
製作したクリエイティブディレクターの方のコメント(Facebook)の一部を引用。
今回のCMが無事完成したのは、
一にも二にも三にも、
美大生の「底力」のおかげです。
多くの広告は、すでに「力をもった人たち」に頼りがちです。知名度のあるタレントやアーティストや演出監督。そうでないと、競合プレゼンが通らない。クライアントの宣伝部長からOKがでない。代理店の営業も心配する「そんな知名度ないやつじゃだめです」と。お金を投資するのだから、その心配はもちろん当たり前です。
だけどせっかく数億円も使ってCM流すのなら(大企業の広告はワンキャンペーンでもそれくらい簡単に動く)、その100分の1くらいは自社の広告だけでなく、新しい才能への投資だと思って使ってほしいと思う。もちろん「広告として機能させる」ことが最優先であることは間違いない。しかし広告として機能させることと、新しい才能を活かすことは、両立できる可能性のある事象でもある。もともと広告には、そういった、パトロンとしての機能が少なからずあった。新しいアイドル。新しい音楽。新しい作家。新しいイラストレーター。新しい写真家。新しい監督。新しい景色。そういったものを広告で発掘してきた例は枚挙に暇がない。もっともっとそういう意識が根付いてほしいと思う。
なぜなら、それは社会全体の循環にもつながることだから。新しい才能が発掘されれば、社会は少し豊かになっていく。古いシステムにしがつみついていれば、社会は少しずつ衰退していく。広告代理店のクリエイティブディレクター、営業がそう思える余裕があるか、クライアントの宣伝部、役員、社長がそういう気持ちをもてるかどうか。みんなが名も知らない才能を起用することはリスクがある。その危険を自らの感覚で背負ってやっていくような気概をもった大人が増えるといいなと思います。
WEBが普及したこの社会では「いいこと」はちゃんと広まるようにできています。広告だけでなく、あらゆる仕事は、次世代の誰かへのエールであってほしいと願っています。自分も30歳を超えて、いつの間にかそっち側の人間になっていることに焦りにもの似た気持ちになっている。がんばらねば。なにはともあれ、学生のみなさん、おつかれさまでした。ありがとうございました。
博報堂の就活のESを書いてみる
就活の季節になりました。(昨年から大分ズレてますが)
今年は、例年より少しOB訪問を多く受けています。「もっといいアドバイスができなかったのか」と後悔することも多いし、「こんなエラそうなコトを言えるほど、自分が頑張っているのか」と反省することもあります。
そして今日はそんな夜でして、眠れなくなってしまったのでPCをとりだし、「自分なら博報堂のESに何を書くのか」に挑戦しようと思った次第です。
あなたが大事にしている言葉(座右の銘) × 広告の仕事」というテーマで自由に論じてください。800 文字以内
こんな課題がでているそうです。「論ぜよ」というところが気になりますが、まぁあまり深く考えなくてもいいでしょう(博報堂の人は寛容だから)。 それを置いておいても、難しいですよね。エラそうなこというくせに、大したこともかけないのか、と叩かれるかもしれなけど、それはそれで「こんなものか」と受け止めてもらいましょう笑。
「最後は人柄」と「企業ブランド」
「最後は人柄だぞ」と、親父はことあるごとに言いました。学校の友だちと喧嘩したとき、自分が何か自慢をする嫌なやつになったとき、親父は僕にそう言いました。それは消えないシミのように、僕の中に確かな跡を残した言葉でした。本当の意味が分かるようになったのは、大学も終わりに近づいた頃だと思います。
誰かの本当の友だちになれるかどうかは、「すごい人」や「出来る人」よりも、結局「人柄」で決まる。そんな考え方です。人柄とは「その人の性質がいい」ことをさしています。人の「性質」は、一朝一夕では身に付かないものなので、日日の努力と、徹底的に客観的な自己評価が必要です。いい人柄を創るのは、簡単なことではありません。
「ブランドづくり」とは、「企業の人柄づくり」なのではないかと、僕は時たま考えます。その企業は「どんな言葉使いで話すのか。丁寧な言葉なのか。強い言葉なのか」「燃えるような赤色を使うのか、潔い白黒にするのか」ロゴ、スローガン、コピー、経営者の言葉、映像。あらゆる要素を使って、その企業の人柄を、少しずつ形成していく作業。それが広告を続ける意味の一つだと思います。ヴィトンを選ぶのは、高貴で丁寧なものづくりをする人柄ですし、NIKEを選ぶのは、スポーツをこよなく愛する情熱的な人柄です。それらはとても長い年月の徹底した人格づくりから生まれています。上辺の人格は見抜かれてしまいます。口先や外見だけなく、実態を伴うことが不可欠です。
友だちを選ぶように、人柄で選ばれ、愛される企業になる。それが広告の仕事における目指すべきゴールなのだと、僕は思います。でもその前に、自分自身の人柄を磨くことに打ち込まなければなりません。作り手の人柄が悪ければ、企業の愛される人柄(ブランド)が創れるわけないのですから。そう考えると、広告の仕事も結局のところ、「最後は作り手の人柄」なのだと思います。(780文字)
おやすみなさい。
『マーケティング・センス』の磨き方。
たまには自分がいる会社について語ろうと思う。いつの間にか会社に入って6年がたち、この会社のこともよく理解できてきた年頃になった気がします。就活の時期ですし、会社の宣伝になりますように。
結論から入ると、博報堂という会社の最大の魅力は「クリエイター」と呼ばれる人間が社内にウロウロウジャウジャしていることにある。デザイナー/コピーライター/CMプランナー/アートディレクター/クリエイティブディレクターなどがいて、みんなそれぞれ面白いのだけど、中でも、美大出身の「デザイナー」を150人くらい抱えていることが、社内外における最大の魅力であり、価値だと僕は考えている。
博報堂は、世間で言う高学歴な人が多い。東大も慶応も早稲田も全体の1割くらいずついる(たぶん)。彼ら(彼女ら)も、すばらしい力をもっているには違いない。でもそれらの存在も、美大卒のデザイナーの価値には遠くおよばない。東大も慶応も早稲田も交換可能だが、デザイナーはそれが難しい。ゼッタイ数にしても、可能性にしても、絶大な希少価値を持っている。
そこに何の魅力があるのかと、ざっくり言えば、「ビジネス的なもの」と「アート的なもの」が本質的に融合した部分を楽しめることにある。東大京大早稲田慶応…そういった大学をでた人たちと、デザイナーが日々同じテーブルを囲んで打ち合せを繰り返す。そうすると、まともな人間であれば、必然的にデザイン思考がインプットされるし、結果、普通の打ち合せでは生まれないアイデアやアウトプットが実現できる。
スティーブ・ジョブズが昔、
というようなことを言っている(意訳)。
アートなんてビジネスに役にたたない趣味・道楽でしょ?と極端な人は思うかもしれないけど、それはゼッタイに違う。 ジョブズは「パリで詩を学ぶこと得られる〔何か〕が、これからのビジネスに役にたつ」と言ってるわけだけど、確かにそれは今の日本で理解されづらい考え方かもしれない。それはたぶん、理屈的な正しさや合理性を越えたところにある。とても肉体的であり、感覚的であり、情緒的なものだ。それらは、音楽や詩やアートや物語から学ぶことができる(学問もアートだけど)。 おそらく、ジョブズは音楽とタイポからそれを学んだし、ウォルト・ディズニーは自ら絵を描くとで学んだ。つまり、ビジネスマンが詩や音楽や絵を学ぶことは、「マーケティング・センス」を磨くことに他ならない。
どれだけ広くリサーチをし、どれだけ正しく分析し、どれだけ多くの機能を取りいれたプロダクトでも、結局は最後の見た目と手触りで命運が分かれることになる。iPodやiMacが他のメーカーと違うのは、あの流線型とマットな質感の中に、すべての機能を閉じ込めていることにある。もちろんiTunesのような仕組みもすばらしいが、結局最後の見た目や手触りへのこだわりに、他のメーカーと大きな差があると僕は考えている。
経済やビジネスと、アート(感性)的なものは、ものすごく複雑に密接に絡み合っているにも関わらず、蔑ろにされている気がしてならない。さらに愚痴をこぼせば、日本のビジネス界に圧倒的に足りていないのは、この力だと思う。「ロゴなんて、3万円でネットで外注して、人件費の安い国でつくればいいんだ」というような発言を、有名な起業家がしたりするのを見ていると、とても悲しい気持ちになる。だからあなたはその程度なのですよ、と言いたくなる。経営者が自分でできなくても、その必要性に気づいている人たちが増えてきている傾向もある。ユニクロの柳井さんがジョン・ジェイをパートナーに起用したり、ソフトバンクの孫さんは「そうだ京都いこう」の佐々木宏を近くに置いているように。でもそういった経営者もまだ少数だと思う。
残念なことに、博報堂の内部の人でもそういった思考を持っていない人もいる。逆に言えば、日本のビジネス界に足りていないからこそ、この会社のこれからは面白い。単純な話、そのデザイナーの力を活かしきれていないからだ。彼らを武器に、どうスケールするビジネスを創っていけるか。最近の自分の興味は完全にそこにあり、そういうことにチャレンジしていけたらとても楽しいと思うし、日本社会の貢献にもっとつながると考えている。
そういう意味で、ひょんなことから、博報堂のクリエイティブに配属されて、得る物はとても大きかった。これからはそれを活かしてアウトプットするフェーズだと考えております。
最後にひとつ、本の紹介をしたいと思います。
そんな博報堂で40年間、クリエイティブ畑を歩んだ名クリエイティブディレクターの大先輩がさいきん書いた本です。「マーケティング・センス」という言葉に、この記事で書いた要素がほぼふくまれています。ビジネスだろうと、すべてはセンス=感性。分析もセンスだし、プレゼンもセンス。しかしセンスは磨くことができる。そういったことが実際に筆者が博報堂で経験した事例をもとに書かれています。気軽に読めるのでぜひみなさんどうぞ。とくに就活生で広告業界に興味ある人は、本当におすすめですよ。
とりあえず以上です。