文鳥社とカラスの社長のノート

株式会社文鳥社/ 株式会社カラス のバードグループ代表をやっています。文鳥文庫を売ったりもしています。

「言葉の力」を信じない。

「言葉の力」という言葉を、たまに耳にします。

その度に、こんなに気持ちの悪い言葉も中々ないよなと思う。ザワザワします。それがもしコピーライターが使っている言葉だとしたらなおのこと。その違和感を強く感じたのは、ちょっと昔の朝日新聞の広告でした。

言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。
それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。
ジャーナリスト宣言

どうですかなんとなくモヤモヤする何かがありませんか?僕も最初は、そのモヤモヤの在処を突き止めることはできなかったのですが、小田嶋さんがとてつもなく鋭く射抜いてくれました。それがこの「コラムニスト宣言」です。とても好きな文章です。一部を引用します。

マジレスをすると、言葉を信じることより、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らをいましめることが、ジャーナリストたる者が持つべき心構えの第一条だと思う。…中略…そう。言葉の残酷さを、言葉のせいにしてはいけない。
オレの言葉が残酷なのは、オレの不徳。……

そう、まさに。僕が感じていたモヤモヤをオダジマ先生の包丁と腕がスパッときれいに料理してくれました。さすがオダジマ先生だと思わずにはいられない。

つまりは「言葉の力」信じるジャーナリストは、「包丁の力」を信じる板前であり、「クラブの力」を信じるゴルファーであり、「無線LANの力」を信じるブロガーみたいなものなわけです。

特に、言葉は、その人そのものです。包丁の力を信じる板前のほうがまだいい。(それが本当にものすごい包丁なのかもしれない。)もしコピーライターがコピーを書いてそれが世の中に何の反応も与えなかったとして「いやーやっぱり言葉は無力でしたね」とか言ったならきっと誰もが殴りたくなるはず。

言葉のプロは、言葉を信用していない。 

僕が知る限り、本当の言葉のプロは言葉を安易に信じたりはしない。

例えば村上春樹がその一人。

いずれにせよ、文章というのは怖いものです。とても鋭い武器になります。時として相手を傷つけるし、自分をも傷つけます。扱いには気をつけた方がいい。言葉に関しては僕はプロだけど、その怖さは身にしみて知っています。 (ダ・ヴィンチ「今こそ村上春樹」)

世界でも最も多くの人に文章を読まれる作家にとって、この姿勢を貫くのは最も難しい作業だと思う。世界中で本を手に取ってくれるあらゆる人の気持ちを想像して書くことに近いわけだから。(もちろんそんなことは無理なのだけど)少なくとも村上春樹はその姿勢で机に向かっている。

別の本では「親切心」という言葉を使っている。文章を書くのに必要な能力は「親切心」だ、と。

でも文章を書くときには、できるだけ読者に大して親切になろうと、ない知恵をしぼり、力をつくしています。エッセイであれ小説であれ、文章にとって親切心はすごく大事な要素だ。少しでも相手がわかりやすく、そして理解しやすい文章をかくこと。 (「サラダ好きのライオン」)

見えない読者に対して、親切であれるか。自分の意見とは違う意見を持つ誰かにさえ、親切でなくてはいけない。それはとても大変なことだし、僕はまだまだそれができない。

「言葉がものすごく邪魔している」

さて、次の「言葉のプロ」はタモリさんです。タモリさんはこれだけ長い間、お茶の間に向かって言葉を送り届け、楽しませてきた人。言葉のプロでないわけがありません。で、最近見つけてとても興味深かった記事がこちら。

タモリにとって言葉とは何か

「やっぱり言葉がいけないんじゃないか。(…)言葉がすべての存在の中に入りこんできて、それをダメにしている。(…)一種言葉に対する恨みみたいなものが、なんとなくずーっとありました。」

その時から「言葉とは余計なもの」だと確信したという。タモリ、19歳の時だった。

最初この話を見たとき、僕はうまく理解できなかった。「言葉が邪魔なんだ」なんて言われたら、コピーライターとしてはすんなり受け入れることはできません。

でもあるときにふと思い出すのです。それはコピーを書いていて、絶望するときです。

どんな多くの的確な言葉を並べたところで、現実と、伝わるものには齟齬がある。その絶望感はいつまでも追いつけないアキレスに似ている(気がする)。そのジレンマに苛まれるとき、タモリさんのこの言葉を思い出すわけです。

 

結局のところ言葉というメディアは、現実も実態も正確に映し出すことはできない。(誇張ならできるかもしれない)多少の差こそあれ、写真や映像でも同じことがいえます。その姿形は映し出されていても、どれだけよく撮れていても、そこにある香りも空気も温度も湿度も伝えることは出来ない。それにも近い。

タモリさんは、そのジレンマを知っているから、言葉を本当に慎重に使っているんだと思う。自分の生き方を作るところから、言葉を生み出してしているからこそ、聞き手の心に届き動かすのだと思う。

 

 そうです、ただの言葉です。

「人民の人民による人民のための政治」これもただの言葉です。

「国が何をしてくれるかではなく、自分が国に何ができるかを考えてほしい。」これもただの言葉です。

「私には夢がある。」そうです、これもただの言葉です。

(中略)

しかし私は知っています。よりよい世界への展望と見えざるものへの信頼を持って、心の底から発せられた、確信に満ちた言葉は、行動を呼び起こすことができるのです。

これも僕が好きな文章のひとつです。 デュエル・パトリック(アメリカの政治家)が「彼は演説がうまい」と揶揄されたお返しの演説です。

ある種類の言葉には力がある。それは、パトリックによれば「よりよい世界への展望と、見えざるものへの信頼を持って、心の底から発せられた、確信に満ちた言葉」です。この条件を満たすがのどれがけ大変かはよくわかります。ひとつ条件に付け加えたいのは「ただの言葉だと認識する」ことです。

 

そうです「ただの言葉」なんです。

大切なのは「言葉の力」を盲目に信じることではありません。

「ただの言葉」を使って、どうすれば伝えたいことが正しく伝わるかに苦心すること。

「ただの言葉」を使って、どうすれば会ったこともない読み手を傷つけずに自分の想いを伝えられるかを苦悩すること。

「ただの言葉」なのだと認識して、「言葉の力」を安易に信じないこと。

きっとそこがいい言葉を紡ぐためのスタート地点なのだと思う。

戒めをこめて。

 

小田嶋隆のコラム道

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サラダ好きのライオン 村上ラヂオ3

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タモリ論 (新潮新書)

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