文鳥社とカラスの社長のノート

株式会社文鳥社/ 株式会社カラス のバードグループ代表をやっています。文鳥文庫を売ったりもしています。

ごはんはちゃんと残しましょう。

「ごはんはちゃんと残しましょう」

という記事を昔Facebookで書いたらみんなから怒られました。

なんてもったいない!何を言ってるんだ!!!と。

もう少し賛同してくれる人がいてくれてもいいと思ったのでけっこう凹みました。

僕の文章がヘタだったのもあるのだと思う。

なので、もう一度チャレンジしたいと思った次第です。 

 

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「ゴハンは残さず食べましょう」

そういう教えがこの日本には確実に存在している。

(世界ではそうでない国もたくさんあると聞きますが)

それがどこから始まったのかは、浅学の僕は知りません。

でも僕はこの教えが、小さい頃から理解できなかった。

 

「自分にとっての適量を自分の机の上に用意するように努力すべきだ」という教えなら、よく理解できます。僕だってできるだけその努力をしている。家で食べるときなら、自分でご飯やおかずの量を調節すればいい。それでこの議論は終了する。

 

でもこの社会で暮らしていると、なかなかそうもいかない。 

 

はじめていったレストランでは、メニューを見たところで分量が解らず、想像よりも多めにでてきてしまうことがある。事前にシェフに分量を聞くことができればいいがそれもなかなか難しい。

僕は牛丼屋では「ごはん、半分でお願いします」といつも言う。つけ麺屋では、麺を1/3にしてもらう(コレを言うと笑われることすらある)。でもそれで減ってでてこないことは多い。さらに、結婚パーティなんか行くとその調整は難しい。というか無理だ。食べ放題みたいな宴会もそうだ。自分の体調だってある。食べ始めたら気持ち悪くなるようなときだってなくはない。学校の給食だって、30人分ピッタリの量が出てくるなてありえない。誰かが休めば、かならず多くでてくるのだから。

 

そうやって、

どうしても「机の上に自分にとって適量ではない量の食事が並んでしまう」ということは往々にしてある。誰の人生にだって、だいたいあるはずだ。これが無い人は、賢人なので僕が言うことはなにもない。

 

問題は、仮にその状態になったときに

一粒残らず無理して食べる」ことにいったい何の意味があるのだろうということです。

僕はそこに何の意味を感じれなかったし、今でも感じていない。だから予想より多くでてきしまったときはだいたい残す。遠慮なく。そして怒られる。 

逆に、残さず無理して食べることは、個人にとっても、社会にとっても害悪のほうが大きいように僕は思う。 

おなかいっぱいになったあとに無理して食べると、とうぜん食べ過ぎなのでメタボになる可能性が高まる。おなかいっぱいになった以上のものを食べるのだから、もちろん食べ過ぎなわけだ。それを繰り返すときっと胃袋が拡がって、満腹中枢もズレていって(推測だけど)、太って、消費カロリーは増え、また食べる量が増えていく。悪循環。

 

もう一個の大きな問題は社会における適切な食事量に関してです

例えば定食屋さんで考えてみて、仮に「多くの人が最後の一口を、無理して多めに、残さず食べている」としたら、それは供給量がムダに多いということになる。なんてモッタイナイ。

仮に「みんなが最後にちょっとずつ、ちゃんと残す」ようになったら、どこかで経営者なり店長が気づいて「もう少しごはん少なくても大丈夫そうだから利益率をあげよう」ということになるはずだ。それは定食屋さんに限らず、パーティだってそうだし、社会全体で同じことが言える。

つまり「ちゃんとごはんを残す」というのは「もうちょっと少なくてよかった」という意思表示であり、それは少しずつ「社会全体における適切な食事の供給量」を調整していくほうに働く、というのが僕の考え方です。

結果として、社会全体における食事量が最適化され、作物のムダが減ると考えるわけです(そして余計なメタボも減って社会も健康になっていくイッセキニチョウ)

  

 

とりあえず以上です。

 

で、ここからは余談。

 

炎上したのにまたここで書こうと思ったのは、

「これはもっとちゃんと議論したほうがいいテーマ」だと思うのと

「昔の嫌な想い出」を引きずっているからでもあります。

(※決してオバマ大統領が寿司を残した話とは何の関係もありません)

  

小学校5年の頃の想い出です。

同じ班の女の子が給食を食べきれなくて、先生が怒っていた。

「世界にはごはんが食べられない人もいるんですよ」

小学校の頃の僕はそこでキレた。今でも覚えている。

「だったら、先生が(食べられない子どもに)持っていってあげればいいじゃないですか」

と言って僕もそのあと一緒に怒られた。

 

その先生が言ってるのはただのキレイゴトであり、なんの解決策にもなっていないことが小学生の俺にだって解った。その女の子が無理して食べて、世界のどっかで子どもが救われるんですか?

もちろん、僕がここで書いていることも、それが全て正しいわけではない。これは一つの考え方だ。 

僕はそういう大人が嫌いだった。どっかで拾って来た空疎な言葉を並べ、誰か他人の旗を掲げ、想像力なき思想を、無知な子どもたちに押し付けようとする大人たち。

 

あのとき、きちんと反論できなかった、恨みにも似たような気持ちを今ここで書いている俺も大人げないのだけど。あのミニスカはいてた先生は、今はいい先生になったのかな。

 

今度こそ、以上です。