文鳥社とカラスの社長のノート

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正しい努力がちゃんと報われる社会がいい。

「努力」に関する記事がいろいろと話題になっています。

がんばった人が報われる社会なんて嫌だ - 意味をあたえる

 

そもそも「報われる」ってなんですか。

 

例えば、大切な人の誕生日に喜んでほしくて、レストランを予約し、プレゼントを買いに歩き回り、当日は最高のおもてなしをしようと「がんばった」とする。それで大切な人が喜んでくれたら、たぶんその努力は「報われた」ことになると思う。

 

だけど、喜んでもらえないことだってある。なんたって人のことだから。プレゼントが気に入らなかったのかもしれない、料理がたまたま美味しくなかったかもしれない。たんに体調が悪かっただけなのかもしれない。がんばった人は残念に思う。でもそれは仕方ないことだ。誰が悪いわけでもない。

 

「報われる」という感情は、とても個人的な感情だと思う。「自分は報われてない」と思う人は、「自分はこんなに頑張っているのにどうして報われないのだろう」と感じている。言い換えれば「自分が社会や他人に対して要求するほどの見返りがなかった」と感じているのだと思う。「がんばり」というインプットをに対して「見返り」というアウトプットが少ないときに「報われない」と人は思うのだろう。

 

「正当な努力をしたひとが、正当に報われる社会」こそが、理想の社会だと僕は思っている。そういう意味で、今の社会はとてもよくできた社会でもある。正しい努力にたいして、成果は割と正しく返ってくる(と個人的には思っているけど、きっとそうじゃないと言う人もいるだろうけど)  。

できることならば、すべての正しい努力が、報われてほしいと思う。今この瞬間、センター試験を目指して不安を抱えながら机にむかっている高校生の努力が報われてほしい。部活動で誰よりも練習をした少年の努力が報われてほしい。街のパン屋さんが寒い朝早くから起きてつくるパンがみんなに喜んでもらえたらいいなと思う。

でも、もしかしたら、テストはうまくいかないかもしれない。試合にはでれないかもしれない。雨がふってパンは売れないかもしれない。だからといって、誰かを恨んではいけない。そこから学んで、また頑張るしか道はない。 

そういう意味で、この社会は厳しく、非情だ。いつだって「がんばる」ことを求められる。「行動」というインプットなしに「見返り」とうアウトプットは戻ってこない。それはもう自然の摂理みたいなものだ。何もしてないでゴロゴロしている人に、愛情もお金も降ってわいてこない。

 

だからこそ、今日もどこかで行われている、正しくてまっすぐな努力が、ちゃんと報われますように。