オダジマ先生に学ぶ、文章を書くために必要な8つの要素。
- 作者: 小田嶋隆
- 出版社/メーカー: ミシマ社
- 発売日: 2012/05/21
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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僕はオダジマ先生の文章が好きです。
どのあたりが好きかと言えば、いろいろあるのだけど、一つあげるとしたら「素直なところ」かと。
執筆の前に結論を出すのではなく、書き始めてからその文章の流れに、ある意味では、身を任せながら、思考をたどり、整理し、新しい発見をしていく。その道筋をありのまま描写していくところが、読んでいてとても心地がいい。
「コラムは道であり、到達点ではない」
「海図通りに進む航海は、冒険としては失敗だ」
そう、文章を書くことは、思考の旅なのだ。
文章とは書きながら、自分の思考を遠くまで飛ばすツールなのだ(もちろん一つの役割だけど)。オダジマさんの文章が面白いのは、その旅の道筋がよく見えるのと、その旅が行き当たりばったりな感じがするからだ。(行き先の解る旅など面白くない)
オダジマさんは、日本で数少ない「コラムニスト」として仕事をされている方です。でも意外に知らない人が多い。コピーライターの仲間でも知らない人が多い。それはそれはもったいないことだと思うのです。(日経ビジネスで今はコラムを書いてるのでそちらもぜひ)
というわけで、タイトルを「オダジマ先生に学ぶ、文章を書くために必要な8つの要素」と書いたからには、オダジマ先生の本数冊から、8つの要素にまとめることにします。
1. 「一に根気、二に根気、三に根気で…」
もちろん語彙は多いほうが良いし、イマジネーションだって豊かであるに超したことはない。言語能力もあったほうが良い。でも、それらは決定的な要素ではない。まっとうな文章(←良い文章、面白い文章とは言っていない)を書くための条件は、あくまでも、根気。そう皆さんの大嫌いな言葉だ。
そう、文章を書くとはとても地味な作業だ。料理人は作っている風景も絵にはなるし、画家が絵を書く姿も絵になるが、文章を書く姿は絵にならない。
夜な夜なデニーズで一人PCに向かい、向かい側のテーブルUNOを始めた男女のことを気にしながらも、石橋を叩くようにキーボードを叩き、レンガを一つずつ積み重ねるように論理を積み重ねるような作業だ(隣のグループの目にはどれだけ暗い奴だと映っていることか)。
そして出来上がった結果、この文章が誰の目にも触れない可能性だってある。忍耐であり、孤独な作業だ。そしてはてなでは叩かれる。実に地味な作業だ。村上春樹はそれを「親切心」とも読んでいたと思う。
因に、オダジマさんはひとつ間違えている気もする。「必要なのは根気だ!」と言われて喜ぶ人は多いはずだ。だって、「それなら自分にもできる」と思えるから。「必要なのは才能だ!」と言われるよりずっといい。
2. 書き手の個性と読み手の普遍性を持て
良い文章は、95%の普遍性に5%の個性を付加したぐらいのバランスの上に成立している。
ものを書くにはある程度の個性が必要なのは当然である。独自の視点、ユニークな文章の書き方、その文章を読んで「その人」であることが解る個性が必要になる。でも時に「個性」はただの押し付けになる。
良い文章を書くためには「書き手としての個性」と同人「読み手としての普遍性」が必要になる。普遍性、あるいは凡庸さとも言えるし、すべての読み手の「最大公約数」とも言える。そうでなければ、多くの人に読んでもらえることは難しい。いやいや、俺は個性100%で書きたいんだという方は、誰にも読まれない覚悟で書くしかない。
3.書き出しに悩むな
書き出しに悩む人は多い。というか、誰だってある程度は悩む。でも文章を書く行為が「旅」である以上、スタートはそれほど重要ではない。書きながら、方向を定め、目的地を探っていけばいい。書き出さなければ、船は永遠に出航することはない。
旅のきかっけなんか何だって良い。全体の構成だって気にしなくて良い。航路が決まっている旅など面白くないのだから。
4.結語にはこだわれ
書き出しと違って、終わりはとても重要だ。多くの人は本文の「要約」をする。しかしこれは無難だ。勝負していない。特にコラムやブログのような自分の個性を出すべき文章では。たとえ最後に滑ってもいい。そこはチャレンジすることが大事なのだ。
天声人語のような終わり方もよくない。「笑顔。高度成長期とうひとつの時代を生きた男の笑顔だった」「今日は健康記念日。晴れの特異日だという」「この空はアリゾナまで続いている。そう思いたい」……季節や、余韻を残すこういう一行は(特に年配の女性読者には)有効だ。でも、イヤミでキザだ
(多分に好みの話でもある)
最後の一行はチャレンジして独自の技巧を磨くべし。
5.書き続けろ
書き続けることは大切だ。それは訓練の意味もあるがもっと大切な意味がある。モチベーションを保つことだ。文章は書くことで、次の文章が生まれてくる。1ヶ月書かなければ文章を書く材料がたまるわけではない。文章は書いていると「あ、次はこのテーマについて買いてみよう」というような次の文章が生まれてくる。何よりペースとういものが大切だ。一度書きそびれると、またPCに向かうことは難しい。一日一稿と決めておけば、なんだかんだ書けるというものだ。
6. Google先生に頼るな
解らないことがあると、Wikipedia教授とGoogle先生にたよりがちだ。でもそうしていくと、文章から独自性は消えていく。文章とは「自分の中からひねり出す」ものなのだ。間違っていそうなときは、断りをいれておく。「これは記憶が確かではないのだが…」とか。幼少の頃のこと、最近であった見識、なんでもいい。「文章を書くとは、自分の内面と会話することに他ならない」って確か誰かが言っていた気がする。
7. 斜め上から見ろ
あるニュースを見る。テレビはこういっていた。でも実はこれには裏の構造がある(ということに自分が気づく)。そこで初めて、文章になり、コラムになる。誰もが見ていることを買いてもしょうがない。裏を見る眼、斜め上から見る眼。
かといって、裏ばかりみろ、というわけではない。複数の視点で物事を見る眼が必要なのだ。反論まで含めて書かなければ深みのある文章にならない。
8. 行き先は決めるな
これはすでに何度か書いた通り。文章を書くとは旅であり、航海である。人はもともと原稿用紙を4枚分の思考をすることなどできない。けれど文章を書くことで、その思考を広げ、深め、遠くまで飛ばすことが出来る。それが文章のいいところだ。
結論が解っているような文章など、きっとまだ浅瀬で遊んでいるにすぎない。一語一語を書かきながら、人は今までに見たことの無い景色を見に行くことができる。それが文章の書き手の楽しみであり、その航路を読者にも楽しんでもらう。それが文章というもののすばらしさだ。
と、ここまで書いて、9つ目が必要なことに今気づいたので書くことにします。
9. 叩かれることを恐れるな
文章を書く上で、用心深さは必要だ。 根気と親切心も必要だ。個性も普遍性も必要だ。
でも何かを主張するからには、反論は覚悟しなくてはいけない。できるだけ誰かを傷つけないように書いても傷つけてしまうこともある。それは辛い。そして叩かれると痛い。しかしそれを恐れていては、鋭い文章など書けるわけもない。オダジマさんの言う「地雷を踏む勇気」というやつだ。空気を読まずに、意見を書くのだ。
内容に関してはかなりの意訳+勝手な見解が混ざっているので、もしもオダジマ先生が見たら「こんなこと書いてない!勝手なことを!」と怒りだすかもしれない。だからはっきりここでひとつ明言しておく必要がある「この文章は、オダジマ先生の見解とは無関係である」と。(あからさまな予防線だ)
というわけでオダジマ先生の文章術が読みたい方は、オダジマ先生の本を買ってぜひとも読んでください。好き嫌いはあるだろうけど、文章を読む人にとって絶対に得るものがあると思う。
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地雷を踏む勇気 ?人生のとるにたらない警句 (生きる技術!叢書)
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それでは最後に、文章を書くすべてのみなさんへ一言。
よい旅を。
「アリとキリギリス」のほんとうの教訓。
みなさんもご存知であろう「アリとキリギリス」。
この話、もともとは「アリとセミ」だったとか。イギリスには蝉がいないのでキリギリスに置き換えられたらしいです(東欧ではコオロギになっている例が多いらしい)。
だけどもとが「セミ」だというのは納得です。なんせ「夏の間は歌ってばかりいる」と言えば、日本でもやっぱりセミですから。
この話の前半部分はきっとみんな同じだと思います。
1. セミは夏の間歌って遊んでいる。
2. アリはせっせと働いている。
3. 冬になり、セミは食料がなくなる。
4. セミはありに「食べるものをください」と言いに行く……
ここまでのストーリーはこれできっと異論はないはずです。
しかし結末はいろいろあるようです。
「冬になって、穀物が雨に濡れたのでアリが乾かしていますと、おなかの空(す)いたセミが来て、食べ物をもらいたいと言いました。『あなたは、なぜ夏の間食べ物を集めておかなかったんです?』『暇がなかったんです。歌ばかり歌っていましたから』と、セミは言いました。すると、アリは笑って言いました。『夏の間歌ったなら、冬の間踊りなさい』
(河野与一訳『イソップのお話』岩波少年文庫)
アリもずいぶんとカッコいい台詞をはきます。『冬の間踊りなさい』なんて、ユーモアというのかアイロニーというのか、いずれせよ風情があります。ぜひ参考にさせてほしい鋭さがあります。
教訓を求めるとしたら「みんな、怠けてないできちんと働こう」なんてところでしょうか。
しかし、日本に普及している多くの物語は、これとは違う結末が待っています。
「さあ、遠慮なく食べてください。元気になって、ことしの夏も楽しい歌を聞かせてもらいたいね・・・・キリギリスは、うれし涙をポロポロこぼしました。」
波多野勤子監修・『イソップ物語』 小学館
めでたしめでたし。困っている人を助け合って最後はみんな幸せに暮らしましたとさ。あぁなんていい話だ。個人的な好き嫌いで恐縮ですが、僕はこの結末が嫌いです。
きっと「こんな残酷な話、子どもには聞かせられません!」とかなんとか言うヒステリックな偽善者が作り替えたに違いない。教訓は「困ってる人を助けてあげる優しい人になりましょう」でしょうか。虫唾が全速力で駆け巡ります。(すみません、これはただの偏見です)
さて、もう一つ。僕が知っている中で最も好きな結末は、また別のところにあります。
アリに断られ、セミは餓死するわけですが、実は、最後にもう一文だけ台詞がつくというものです。
すると、アリは笑って言いました。
『夏の間歌ったなら、冬の間踊りなさい』
すると、セミはこう答えました。
『歌うべき歌は、歌いつくした。私の亡骸を食べて、生きのびればいい。』
この台詞が物語を転換させます。アリ「ただ生きるために働きつづける」アリとなり、セミは「自分のやりたいことをやりつくしたのだから悔いもなくかっこよく生きた」セミになる。
最後に意地をはっただけかもしれない。ただの負け惜しみともとれる。でも僕はセミを馬鹿にはできない。どちらかと言えば敬意を抱く。
みなさんは、どの結末が好きですか?
そこでそろそろ、この記事の結末に…
この「アリとキリギリス」の物語は、この3パターンの結末があって、初めて完成する寓話なんじゃないかと思ったわけです。
つまり本当の教訓はざっくり言えば「生き方に正解なんてあるわけがない」ということなんじゃないかと。(ざっくりすぎるな)
どれか一話だけを知っていたとして、それを鵜呑みにしたら、あぁなんて怖いことでしょうか。あらゆる教育の恐ろしさはここにある気がします。つまり、一つの思想を誰かに押し付ける恐ろしさであり、それだけしか知り得ない恐ろしさです。
Aという生き方もある。Bという生き方もある。Cという生き方もある。できるだけ多くの生き方や考え方を知った上で、「AもBも解るけど、僕はCの生き方をしたい」と決めるべきなんです。それが想像力というものなのです。
こう書くと「なに当たり前のこと言ってるんだ」と思う人もいるかもしれない。でも「いろんな考え方を想像して自分の考えを決める」ということを実践するのはとても難しいし、理解することも難しい。僕はできている自信がないし、あなたもきっとできていない。
この「アリとキリギリス」の3つの結末はそれを解りやすく伝えてくれます。そこがいいところです。だからぜひ子どもたちに読み聞かせるときは、三つとも伝えてあげてほしいと思うのです。教育に本当に大切なのは、躾でもなく、知識でもなく、学歴でもなく、想像力なのだから。
P.S
三つめの「歌い尽くした」ってセミが言う結末ですが、これのソースが見つかりません。昔「天声人語」で見た気がしたのだけど。物語なんて、誰かが一行を足すだけで、簡単に転換するものなんですよね。だけど、それはもしかしたら、僕たちの人生も同じことなのかもしれません…(タモリ風)
「この世は生きるに値するんだ」と言える大人。
みんな言ってるけど、この言葉やっぱいいすね。
あれだけの作品を作り続けてきた宮崎駿の言葉だからやっぱり伝わるものがあるわけだけど、でも、
「この世は生きるに値するんだ」
こうやって言える大人って、本当に少ない。
この世界はすばらしい。生きていることはすばらしい。大人ってマジで楽しい。
それは強がりかもしれないし、誇張かもしれない。
だけど大人たちはそれを張り裂けるくらい胸張って言わなきゃいけない。
そうしなければ、子どもはいい育ち方をするわけがない。
俺は子ども育てたこと無いけど、それは絶対子育ての鉄則だと思う。
「いいか、この世界は楽しいことだらけなんだぞ。そこら辺に幸せってのが転がっててな。自分の意思と努力と希望次第で、いくらでもやりたいことが実現できる世界なんだぞ。魔法のような世界だ!しかもな、大人になると酒も飲めてタバコもすえて、仕事はエキサイティングであんなこともこんなこともできて最高だぞ。」
って言うべきなんだ。そしてそれを大人たちは実践すべきだ。人生は楽しい。大人は楽しい。楽しすぎて笑いがとまらないって、社会の大人たちは就活生に対して口が裂けるくらい大きな声を出して言うべきだ。
毎朝、コーヒーの香りを楽しむ。それも幸せだ。夏になるとガリガリくんを食べられる。それだって幸せだ。着る服だって自由だ。仕事だって自由に選べる。そう、今の日本ほど自由な世界なんてきっとない。でも多くの人はそのことに気がつかない。なぜならそういう大人が少ないから。
俺がこういうことを言うと「いや、そんな甘いことを言うもんじゃない。現実は厳しいんだ」とか言う大人がいる。はっきり言おう。黙れと。
そういうネガティブ現実を見るやつは、結局そのネガティブ現実から抜けださない。ずっと給料やら、現実やら、ノルマやら、ローンのことばっかり考えたり、社会に対する不平不満ばかり言う。で、そいつらが次の世代にむかった「現実は甘くないんだよ」とかくだらないことをいうわけだ。そしてまたそういう大人が育っていく。これほどの悪循環もなかなかない。 確かに現実は厳しい。でもそれをわざわざ主張する必要なんてどこにもない。
誰もが宮崎駿みたいになれるわけない?いや、なれるでしょ。誰もがジョブズみたいになれるわけない?いや、なれるでしょ。誰もが夢を持っているわけじゃない?それはそれでかまわない。夢がすべてではない。別にいいんだ「なぁ息子よ。毎日コーヒーが飲めるって幸せなことだと思わないか?」とかそんなことだっていい。
この世界には楽しいことがまだまだたくさんあるんだ。
辛くも悲しくも切なくも傷つくこともある。絶望することだってある。
でもトータルに見れば幸せな毎日が続いていくんだ。
「幸せは途切れながらも続くのです」ってスピッツも言ってたし
「あぁ世界はすばらしい」ってミスチルも歌ってた。
「 この世は生きるに値するんだ」と宮崎駿も言ってた。
まだまだ俺は実践出来ていないけど、
「生きるって楽しい」と、少なくとも、そう言える大人にわたしはなりたい。
「言葉の力」を信じない。
「言葉の力」という言葉を、たまに耳にします。
その度に、こんなに気持ちの悪い言葉も中々ないよなと思う。ザワザワします。それがもしコピーライターが使っている言葉だとしたらなおのこと。その違和感を強く感じたのは、ちょっと昔の朝日新聞の広告でした。
言葉は感情的で、残酷で、ときに無力だ。
それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。
ジャーナリスト宣言。
どうですかなんとなくモヤモヤする何かがありませんか?僕も最初は、そのモヤモヤの在処を突き止めることはできなかったのですが、小田嶋さんがとてつもなく鋭く射抜いてくれました。それがこの「コラムニスト宣言」です。とても好きな文章です。一部を引用します。
マジレスをすると、言葉を信じることより、言葉のうさんくささを自覚して、常に自らをいましめることが、ジャーナリストたる者が持つべき心構えの第一条だと思う。…中略…そう。言葉の残酷さを、言葉のせいにしてはいけない。
オレの言葉が残酷なのは、オレの不徳。……
そう、まさに。僕が感じていたモヤモヤをオダジマ先生の包丁と腕がスパッときれいに料理してくれました。さすがオダジマ先生だと思わずにはいられない。
つまりは「言葉の力」信じるジャーナリストは、「包丁の力」を信じる板前であり、「クラブの力」を信じるゴルファーであり、「無線LANの力」を信じるブロガーみたいなものなわけです。
特に、言葉は、その人そのものです。包丁の力を信じる板前のほうがまだいい。(それが本当にものすごい包丁なのかもしれない。)もしコピーライターがコピーを書いてそれが世の中に何の反応も与えなかったとして「いやーやっぱり言葉は無力でしたね」とか言ったならきっと誰もが殴りたくなるはず。
言葉のプロは、言葉を信用していない。
僕が知る限り、本当の言葉のプロは言葉を安易に信じたりはしない。
例えば村上春樹がその一人。
いずれにせよ、文章というのは怖いものです。とても鋭い武器になります。時として相手を傷つけるし、自分をも傷つけます。扱いには気をつけた方がいい。言葉に関しては僕はプロだけど、その怖さは身にしみて知っています。 (ダ・ヴィンチ「今こそ村上春樹」)
世界でも最も多くの人に文章を読まれる作家にとって、この姿勢を貫くのは最も難しい作業だと思う。世界中で本を手に取ってくれるあらゆる人の気持ちを想像して書くことに近いわけだから。(もちろんそんなことは無理なのだけど)少なくとも村上春樹はその姿勢で机に向かっている。
別の本では「親切心」という言葉を使っている。文章を書くのに必要な能力は「親切心」だ、と。
でも文
章を書くときには、できるだけ読者に大して親切になろうと、 ない知恵をしぼり、力をつくしています。 エッセイであれ小説であれ、文章にとって親切心はすごく大事な要 素だ。少しでも相手がわかりやすく、そして理解しやすい文章をか くこと。 (「サラダ好きのライオン」)
見えない読者に対して、親切であれるか。自分の意見とは違う意見を持つ誰かにさえ、親切でなくてはいけない。それはとても大変なことだし、僕はまだまだそれができない。
「言葉がものすごく邪魔している」
さて、次の「言葉のプロ」はタモリさんです。タモリさんはこれだけ長い間、お茶の間に向かって言葉を送り届け、楽しませてきた人。言葉のプロでないわけがありません。で、最近見つけてとても興味深かった記事がこちら。
「やっぱり言葉がいけないんじゃないか。(…)言葉がすべての存在の中に入りこんできて、それをダメにしている。(…)一種言葉に対する恨みみたいなものが、なんとなくずーっとありました。」
その時から「言葉とは余計なもの」だと確信したという。タモリ、19歳の時だった。
最初この話を見たとき、僕はうまく理解できなかった。「言葉が邪魔なんだ」なんて言われたら、コピーライターとしてはすんなり受け入れることはできません。
でもあるときにふと思い出すのです。それはコピーを書いていて、絶望するときです。
どんな多くの的確な言葉を並べたところで、現実と、伝わるものには齟齬がある。その絶望感はいつまでも追いつけないアキレスに似ている(気がする)。そのジレンマに苛まれるとき、タモリさんのこの言葉を思い出すわけです。
結局のところ言葉というメディアは、現実も実態も正確に映し出すことはできない。(誇張ならできるかもしれない)多少の差こそあれ、写真や映像でも同じことがいえます。その姿形は映し出されていても、どれだけよく撮れていても、そこにある香りも空気も温度も湿度も伝えることは出来ない。それにも近い。
タモリさんは、そのジレンマを知っているから、言葉を本当に慎重に使っているんだと思う。自分の生き方を作るところから、言葉を生み出してしているからこそ、聞き手の心に届き動かすのだと思う。
そうです、ただの言葉です。
「人民の人民による人民のための政治」これもただの言葉です。
「国が何をしてくれるかではなく、自分が国に何ができるかを考えてほしい。」これもただの言葉です。
「私には夢がある。」そうです、これもただの言葉です。
(中略)
しかし私は知っています。よりよい世界への展望と見えざるものへの信頼を持って、心の底から発せられた、確信に満ちた言葉は、行動を呼び起こすことができるのです。
これも僕が好きな文章のひとつです。 デュエル・パトリック(アメリカの政治家)が「彼は演説がうまい」と揶揄されたお返しの演説です。
ある種類の言葉には力がある。それは、パトリックによれば「よりよい世界への展望と、見えざるものへの信頼を持って、心の底から発せられた、確信に満ちた言葉」です。この条件を満たすがのどれがけ大変かはよくわかります。ひとつ条件に付け加えたいのは「ただの言葉だと認識する」ことです。
そうです「ただの言葉」なんです。
大切なのは「言葉の力」を盲目に信じることではありません。
「ただの言葉」を使って、どうすれば伝えたいことが正しく伝わるかに苦心すること。
「ただの言葉」を使って、どうすれば会ったこともない読み手を傷つけずに自分の想いを伝えられるかを苦悩すること。
「ただの言葉」なのだと認識して、「言葉の力」を安易に信じないこと。
きっとそこがいい言葉を紡ぐためのスタート地点なのだと思う。
戒めをこめて。
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「いいね!」は「想像力の欠如」のボタン
これにはタイムリーに共感した。まったく同じ理由で、俺も「はてな」ブログをはじめたところだったから。
Facebookはとてもすごいサービスだと思う。ザッカーバーグも、とても好きだ。Facebookを使うことで、世界中の多くの人が「いいね!」と周りからいわれるような暮らしや活動を率先して行うようになった。しかもそれは、早朝にランニングしたり、旅行にいったり、家で料理を作ったり、それで年に一度の結婚祝いだけは贅沢するような暮らしだ。それにみんなが「いいね!」という。うすくていい関係だ。うん、とてもいい。文句はない。いい世界だ。
でもそこにずっといると、違和感を感じ始める。
この世界に「いいね!」はたくさんあるけど「面白み」がない。
そのことに気がつき始める。なんとなく「いい空気」がずっと流れている。そりゃ飽きてもくる。だって、人間は本当はそんな緩くてぬるい空気だけじゃいきていけない生き物だから。村上春樹がいってた通り
幸福は一種類しかないが、
不幸は人それぞれに千差万別だ。
幸福とは寓話であり、
不幸とは物語である。
べつに人の不幸が見たいわけじゃない。でもやはり人の幸福には寓話のようにあるパターン(いくつかしかない)がある。それはある程度の教訓はある。
誰かの強烈な意見、悲しみ、苦しみ、妬み、そんな人には見せられない部分こそ、実は人の興味を引き、ある種の人の心を慰め、癒してくれる。そして俺はその「ある種」の人間なのだと思う。
俺はもともと外部に向けて文章を書き始めたのは、Facebookだった。よく投稿していた。多くの人がその投稿を見て、共感してくれて、何人かの人はたくさん熱心にコメントをしてくれた。それはとてもありがたいことだ。そこでは僕は間違いなく「いい人」になっていた。
でも同時に、「なんかおかしいぞ、俺はそんないいやつなのか?」というひっかかりが残っていた。Facebookには、書きたくても書けないことがたくさんあった。
俺が「はてな」に移ろうとおもったのは、少し前の「学歴論争」がきっかけだった。あの学歴問題の議論が深くなっていく様に、なんだか心がざわざわと踊った。
何が面白いって、何が正しいかはわからないけどそれぞれの立場で本気の意見を述べていて、それに対しても本気で文章で戦おうとしている様に、鬼気迫るものを感じた。思考や立場や文章で戦う姿勢があった。そしておそれらの議論は、Facebookでは触れられることがほとんどなかったように思う。
結局のところ「いいね!」は「想像力の欠如」を生むボタンだ。
この世界では判断指針が明確だ。そこにはもう既に方向性が定められている。日常的に「いいね!」というボタンというシステムに脳が支配されてくる。
しかもSNSというシステムは「自分にあった人が集まる」場所だ。そりゃ新しい意見も反対側の姿勢もなかなか飛び込んではこない。これはまずい傾向だ。
ずっと言われてることだけど、ここ(はてなみたなブログ世界)には「議論」がある。つまり想像力を養う土壌がある。そこが何よりいい。コンビニ店長がいえば、東大出が返し、腐女子が返す。こんな面白いフィールドはなかなかない。
だからここに「コピーライターの目のつけどころ(ダークサイド)」を作ってみたわけです。(身元も割れてることだし)どれだけさらけ出せるかわからないけど、自分の思考を深める訓練として。
すべては想像力の問題だ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イエーツが書いている。 「海辺のカフカ」
「いいね!」は「想像力の欠如」のボタン。とかいいながら、この記事の下にはちゃんと「いいね!」ボタンが登場するじゃないか、というつっこみは先に自分でしておきます。でわ
- 作者: 村上春樹
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