文鳥社とカラスの社長のノート

株式会社文鳥社/ 株式会社カラス のバードグループ代表をやっています。文鳥文庫を売ったりもしています。

それでも本を読んだ方がいい理由。

 

新潮文庫の100冊を筆頭に、今年の夏も恒例『文庫祭り』が始まりました。今年の新潮文庫のサイトはこんな感じです。

 

f:id:MAKINO1121:20140705233902p:plain

さて、本を読むことの意義に関しては、昔からずっと議論されています。

本を読むには時間がかかる。これだけSNS(主にTwitter、Facebook)で小さい単位の情報に触れている人にとって、一冊の本は長過ぎる。それでも、本を読むことに意味はありますか?と思っても仕方ない。

 

僕は本が好きだし、できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思う。そして、それでも本をよんだほうがいいと思う理由が、僕にはひとつあります。一言でいってしまえば、物語は人を救うからです。

 

とても個人的な話ですが、僕は大学時代、高田馬場の駅前で酔っぱらってみんなで校歌を熱唱しているような早稲田大学のノリにうまく馴染めず、4年間のほとんどを独りで過していました。自分が何のために生きているのかさっぱり分かりませんでした。頭を抱えて絶望することもありました。控えめに言って、コミュニケーションもうまくとれない、情緒不安定なダメ大学生です。

 

そこで僕は、本を読みました。生協に平積みされている本を順番に。面白い本もあれば、そうでない本もあったけど、いろいろ手に取りページをめくりました。それはギリギリ自分をつなぎとめるための作業でした。間違いなく、その時の僕は本に救われた。後になって解ったことだけど、それは「物語の効用」でした。

 

物語にはいろいろ効用があります。例えばこちら。 

本はやっぱり読むべき!? 読書は心身の健康にいいことが判明 「大脳が活性化」「アルツハイマー病の予防」「孤独を感じにくくなる」など | ロケットニュース24 

「物語を通じて他者の感情を体験することにより、相手の感情を推し量ることができるようになりコミュニケーション力がアップする」

ここにいろいろ書いてありますが、おそらく読書は、一番簡単な「メンタルコントロール」のためのツールです。さらに言えば、読書は「メタ認知」能力を養う働きをもっているのだと思います(大学時代の僕はこんな言葉を知らなかったわけですが)「メタ認知」という言葉がしっくりくる気がします。 

メタ認知メタにんち)とは認知を認知すること。人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。それをおこなう能力をメタ認知能力という。

by Wikipedia

 

言い換えれば「自分の感情をコントロールする」力であり、「自分と他人を、切り離して考える」力だと思います(これは個人的な解釈です)。

 

この能力、いまの社会をうまく生きるうえで、とてつもなく大切な力だと思います。これができない多くの人が精神を病んでしまうことになる。「他人との違い」を気にしてしまったり、「他人が自分をどう思うか」に左右されたりする。つまり上司の発言にいちいち振り回されたり、恋人との関係に悩みすぎたりしてしまう。他者に感情をコントロールされると、生きるのは大変です。なぜなら人は、根本的に自分のことしか考えていない生きものだから。他人と完全に同調することなど未来永劫ありません。でも「自分と他人を分けて考える」ことは案外むずかしいことです。

 

ノルウェイの森で永沢さんが主人公に言う言葉。

 

「ワタナベも俺と同じように本質的には自分のことにしか興味が持てない人間なんだよ。自分が何を考え、何を感じ、どう行動するか。だから自分と他人とを切り離してものを考えることができる」

「俺とワタナベの似ているところはね、自分のことを他人に理解してほしいと思っていないところなんだ。他のやつらはみんな自分のことを周りの人間にわかってほしいと思ってあくせくしてる。でも俺とワタナベはそうじゃない。理解してもらわなくたってかまわないと思っているのさ。自分は自分で、他人は他人だって」

    ノルウェイの森

かなり嫌な口調で言っていますが、実はとてもいいことを言ってます。

 

「メタ認知」はいわば、自分の感情世界の外側に、もう一つの世界を作り上げるようなことです。そのことにより、自分の感情を客観的にとらえ、感情をコントロールすることができます。本を読むことを繰り返せば、間違いなく「メタ認知」能力を養うことができます。孤独となって他者の感情と向き合うことを通して、自分の感情を知ることができるからです。

 

そこでやはりおすすめしたくなるのが、村上春樹の小説です。 なぜなら村上春樹は、かなりあからさまに「物語の世界と、現実の世界の往復」ということを念頭において小説を書いている人だからです。つまり「救済のための物語」を書くひとだからです。

 

例えば、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、二つの物語が並列して進んでいきます。しかも僕」と「私」と「俺」という、人物が登場します。つまり、同一人物を三つの人格から描いていくわけです。

 

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 上巻 (新潮文庫 む 5-4)

 

 

実際、悪い宗教にはまって抜け出せなくなった人が、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を何度も読んで、そこから抜け出すことができたと、村上春樹に感謝の手紙を送ったというエピソードもあります。村上春樹は良い物語の効用を「白魔法」と呼び、悪い宗教のような悪いフィクションを「黒魔法」と呼んでいます。

 

 

本は、別の世界を知るためのツールです。簡単に、別の世界を覗くことができるのです。ページを開けば、どこへでもいけます。「どこでもドア」であり「タイムマシーン」であり、他者の感情を覗く「窓」であり、それによって自分の感情を知る「鏡」です。しかも、とてもつなく安いわけです。ビール一杯より、安いですから。

 

もしも人間関係に疲れたり、会社にいくのが嫌になったりしたら、生きるのがツラくなったり、まずは本のなかにある世界へ避難してみてください。それが僕が唯一、悩んでいる人に差し出せる手段です。

 

とある小説家がとてもいいことを言っています。

なんのために小説を書くかといえば、

結局はこれに尽きる ──

あなたはひとりぼっちじゃないんですよ、

と伝えるため。

スーザン・ヒル(イギリスの小説家) 

 

こうやって人は、物語を書きつづけ、生き続けるのでしょう。

どうかこれからも、いい物語が生まれ続けますように。

 

というわけで最初にもどって、この夏休みは、「新潮文庫の100冊」の世界へどっぷり浸かってみてはいかがでしょうか。 全部買っても、68000円くらいらしいですよ。

 

以上です。

 

「メキシコの漁師とMBAコンサルタント」の話から考える仕事感について

「漁師とコンサルタント」という有名な話がある。

僕はこの話がとても好きです。

たぶん、有名なので知ってる人は多いと思いますが、だいたいこんな話。

 

f:id:MAKINO1121:20140503010617j:plain

 

 

メキシコの海岸沿いの小さな村に、MBAをもつアメリカのコンサルタントが訪れた。
ある漁師の船を見ると活きのいい魚が獲れている。

 

コンサルタントは聞いた。


「いい魚ですね。漁にはどのくらいの時間かかるのですか?」
「そうだな、数時間ってとこだな。」

「まだ日は高いのに、こんなに早く帰ってどうするのですか?」


「妻とのんびりするよ。一緒にシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子供と戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しみ、それで、寝ちまうよ。」

それを聞いてコンサルタントはさらに質問をした。
「なぜもう少し頑張って漁をしないのですか?」

漁師は聞き返した。

「どうして?」と。

「もっと漁をすれば、もっと魚が釣れる。それを売れば、もっと多くの金が手に入り、大きな船が買える。そしたら人を雇って、もっと大きな利益がでる。」

 

「それで?」と漁師は聴く。

 

コンサルタントは答える。

「次は都市のレストランに直接納入しよう。さらに大きな利益がうまれる。そうしたら、この小さな村から出て、メキシコシティに行く。その後はニューヨークに行って、企業組織を運営すればいいんだよ。」

「そのあとはどうするんだ?」漁師はさらに聞いた。

コンサルタントは満面の笑みでこう答えた。

「そこからが最高だ。企業をIPOさせて巨万の富を手に入れるんだ。」

「巨万の富か。それで、そのあとはどうするんだい?」と漁師は最後に質問した。

「そしたら悠々とリタイヤさ。小さな海辺の町に引っ越し、家族とのんびりシエスタを楽しみ、午後にはギターを弾きながら子供と戯れ、夕暮れにはワインを傾けながら妻と会話を楽しむ。のんびりした生活を送れるのさ。」

漁師はため息をつき、やれやれ、という顔で一言を付け加えた。


「・・・・そんな生活なら、もう手に入れているじゃないか。」

 

これはアメリカ(?)に伝わるビジネスジョークです。

資本主義の手先であるMBAを取得したコンサルタントの言うことなんて、

無意味でバカなただの笑いのネタみたいなもんですよ、と。

 

多くのひとは「ハハハ、そうだよMBAなんて、人の大切な生活に何の意味もなさないんだよ」と笑ったことでしょう。僕も最初聞いたときは、気の利いたジョークだなと思いました。

 

 

でも、本当にそうだろか?

 

すぐれた釣りの技術を持ち、必要最低限の仕事をし、シエスタを楽しみ、家族を大切にする。その価値観はすばらしい。サイコーだ。別にそれはそれでいい。

 

でも僕はそんな人生はごめんです。

 

そもそも、

 

ずっと釣りだけをしてのんびり過ごした60歳の男」と

がんばって仕事をし、仲間を増やし、船を買い、倉庫を買い、レストランとのコネクションを開拓し、ニューヨークで企業経営をし、リタイアして、ずっと釣りだけをしてのんびり過ごした60歳の男」は、

果たして同じ男でしょうか?

それは本当に同じ暮らしでしょうか。

広がっているのは同じ眺めでしょうか。

そうじゃないだろうと思うわけです。 

 

でも、この2つの生き方のどちらを選ぶかは、本当に人それぞれ違います。

俺の親友は割と前者の生き方を愛する人が多いかもしれない。

 でも俺はあえて言うのだけど、

できるだけ多くの人に後者の人生を選んでほしいと思ってしまいます。

 

とても大きな苦労をするに違いない。

せっかく手に入れた仲間に裏切られて決別したかもしれない。

規模を拡大しすぎてうまくいかなくて頭を抱えたかもしれない。

レストランの開拓も思うようにいかなかったかもしれない。

企業経営なんて未知のセカイはきっと苦労しただろう。

 

でも、きっと、たくさんのものを得て、成長したに違いないわけだ。

多くの人と出会い、心が動き、時には涙を流して仲間と喜びあったかもしれない。

もしくは喜びなんかなくて、絶望しかなかったのかもしれない。

でも最後には「あぁうまくいかなったけど、俺はチャレンジした」と、

数多の出来事と出会いを振り返りながら、眺める海はやっぱりとてもすばらしいんじゃないだろうか、と思うんです。

 

「漁師とコンサルタント」の話は、決して「まぬけなMBAコンサルタント」という話としては片付けられない、テーマなんじゃないか、と酔っぱらってひとり考えてしまうわけです。

 

以上です。

 

追記:

昨日の夜、知り合いが起業してあたらしい事業を起こした

その決起集会にいってきて、酔っぱらいながら書いてしまった。

どれだけ大変な道のりかは解らないけど、

たくさんの仲間に支えられて楽しそうでした。

そういうチャレンジをする人たちを応援したいと思います。

 

 

前途を祝して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ごはんはちゃんと残しましょう。

「ごはんはちゃんと残しましょう」

という記事を昔Facebookで書いたらみんなから怒られました。

なんてもったいない!何を言ってるんだ!!!と。

もう少し賛同してくれる人がいてくれてもいいと思ったのでけっこう凹みました。

僕の文章がヘタだったのもあるのだと思う。

なので、もう一度チャレンジしたいと思った次第です。 

 

--------------------------------------------------

 

「ゴハンは残さず食べましょう」

そういう教えがこの日本には確実に存在している。

(世界ではそうでない国もたくさんあると聞きますが)

それがどこから始まったのかは、浅学の僕は知りません。

でも僕はこの教えが、小さい頃から理解できなかった。

 

「自分にとっての適量を自分の机の上に用意するように努力すべきだ」という教えなら、よく理解できます。僕だってできるだけその努力をしている。家で食べるときなら、自分でご飯やおかずの量を調節すればいい。それでこの議論は終了する。

 

でもこの社会で暮らしていると、なかなかそうもいかない。 

 

はじめていったレストランでは、メニューを見たところで分量が解らず、想像よりも多めにでてきてしまうことがある。事前にシェフに分量を聞くことができればいいがそれもなかなか難しい。

僕は牛丼屋では「ごはん、半分でお願いします」といつも言う。つけ麺屋では、麺を1/3にしてもらう(コレを言うと笑われることすらある)。でもそれで減ってでてこないことは多い。さらに、結婚パーティなんか行くとその調整は難しい。というか無理だ。食べ放題みたいな宴会もそうだ。自分の体調だってある。食べ始めたら気持ち悪くなるようなときだってなくはない。学校の給食だって、30人分ピッタリの量が出てくるなてありえない。誰かが休めば、かならず多くでてくるのだから。

 

そうやって、

どうしても「机の上に自分にとって適量ではない量の食事が並んでしまう」ということは往々にしてある。誰の人生にだって、だいたいあるはずだ。これが無い人は、賢人なので僕が言うことはなにもない。

 

問題は、仮にその状態になったときに

一粒残らず無理して食べる」ことにいったい何の意味があるのだろうということです。

僕はそこに何の意味を感じれなかったし、今でも感じていない。だから予想より多くでてきしまったときはだいたい残す。遠慮なく。そして怒られる。 

逆に、残さず無理して食べることは、個人にとっても、社会にとっても害悪のほうが大きいように僕は思う。 

おなかいっぱいになったあとに無理して食べると、とうぜん食べ過ぎなのでメタボになる可能性が高まる。おなかいっぱいになった以上のものを食べるのだから、もちろん食べ過ぎなわけだ。それを繰り返すときっと胃袋が拡がって、満腹中枢もズレていって(推測だけど)、太って、消費カロリーは増え、また食べる量が増えていく。悪循環。

 

もう一個の大きな問題は社会における適切な食事量に関してです

例えば定食屋さんで考えてみて、仮に「多くの人が最後の一口を、無理して多めに、残さず食べている」としたら、それは供給量がムダに多いということになる。なんてモッタイナイ。

仮に「みんなが最後にちょっとずつ、ちゃんと残す」ようになったら、どこかで経営者なり店長が気づいて「もう少しごはん少なくても大丈夫そうだから利益率をあげよう」ということになるはずだ。それは定食屋さんに限らず、パーティだってそうだし、社会全体で同じことが言える。

つまり「ちゃんとごはんを残す」というのは「もうちょっと少なくてよかった」という意思表示であり、それは少しずつ「社会全体における適切な食事の供給量」を調整していくほうに働く、というのが僕の考え方です。

結果として、社会全体における食事量が最適化され、作物のムダが減ると考えるわけです(そして余計なメタボも減って社会も健康になっていくイッセキニチョウ)

  

 

とりあえず以上です。

 

で、ここからは余談。

 

炎上したのにまたここで書こうと思ったのは、

「これはもっとちゃんと議論したほうがいいテーマ」だと思うのと

「昔の嫌な想い出」を引きずっているからでもあります。

(※決してオバマ大統領が寿司を残した話とは何の関係もありません)

  

小学校5年の頃の想い出です。

同じ班の女の子が給食を食べきれなくて、先生が怒っていた。

「世界にはごはんが食べられない人もいるんですよ」

小学校の頃の僕はそこでキレた。今でも覚えている。

「だったら、先生が(食べられない子どもに)持っていってあげればいいじゃないですか」

と言って僕もそのあと一緒に怒られた。

 

その先生が言ってるのはただのキレイゴトであり、なんの解決策にもなっていないことが小学生の俺にだって解った。その女の子が無理して食べて、世界のどっかで子どもが救われるんですか?

もちろん、僕がここで書いていることも、それが全て正しいわけではない。これは一つの考え方だ。 

僕はそういう大人が嫌いだった。どっかで拾って来た空疎な言葉を並べ、誰か他人の旗を掲げ、想像力なき思想を、無知な子どもたちに押し付けようとする大人たち。

 

あのとき、きちんと反論できなかった、恨みにも似たような気持ちを今ここで書いている俺も大人げないのだけど。あのミニスカはいてた先生は、今はいい先生になったのかな。

 

今度こそ、以上です。

教えて!テリー先生! 『このコピー英語でなんて言うの?』

みなさん、「テリー先生」をご存知でしょうか。

「Real英会話」というすばらしいアプリを開発されている最高の先生です。

ちなみにアプリ画面はこちら。

 

f:id:MAKINO1121:20140412233917p:plain

 

本当に面白いアプリなわけです。そして何が「REAL」なのかと言えば「日本語の会話」がとてもリアルなのです。

よくある英会話本などの形式ばったりありきたりな会話ではなくて、「あぁ確かにそんな感じに話すよなぁ」という納得できるリアルな会話が豊富なのです。

 

例えば…

f:id:MAKINO1121:20140412235139p:plain

 

ありますね。「あーこんな会話あるある」というリアルさを追求した英語学習アプリなのです。とても参考になります!!!(僕はまだまだ英語ができないのであまり信憑性ないですが)

 

で、ある時テリー先生が、こんなツイートしていました。

 

f:id:MAKINO1121:20140412235416p:plain

 

 

「ぜんぶ雪のせいだ」

みまさまご存知、2013年度、最も浸透したコピーです(独自調べ)

 

これは面白いと思ったわけです。

みんなが知ってるコピーを、英語にしたらどうなるんだろう?とふと興味を持ちました。コピーというのは、言語に依存したかなりややこしさをもっていますそこにこめられているニュアンスは、きっと直訳では伝わりません。

 

というわけで、

「テリー先生に聞いてみようではないか!」と思い立ったわけです。

すぐにFacebookでメッセージを送りました。「テリー先生、はじめまして…うんぬん」するとなんとすぐに返信があり「ぜひやりましょう」ということでメール一通で「教えて!テリー先生!このコピー英語でなんて言うの?」企画が決定した次第です。テリー先生、本当にありがとうございます。というわけで、早速いってみたいと思います。

 

そうだ 京都、行こう。

 

f:id:MAKINO1121:20140412235959j:plain

 

 

誰もが知っているこのコピー。もう20年も続いているJR東海のコピーです。数々の名作を生み出しているクリエイティブディレクターの佐々木宏さんの最高傑作ではないだろうかと思えるほどの名作。でもこの英訳はニュアンスがとても難しいと思います。とても平易な言葉ですが、「京都に」の「に」が入ってなくて「、」であったり、「そうだ」のあとには句読点もないです(そこらへんは字面を意識したのかもしれません)

 

 

テリー先生の訳は「Why not go to Kyoto?」ということになりました。 

 

「テリー先生から一言」

気まぐれでパッと出た提案というような感じです。広告などでありそうなフレーズで、JRの広告としてはベストだと思います。文法も優雅でちょっと珍しいので、「京都」の雰囲気にぴったりではないかと思います。

 

 

なるほど。

でも一つ思うのは、「そうだ」という、「今」思いついたからいってしまおう、という気軽さが抜けてしまっているかもしれません。今度はそのあたり聞いてみたいと思います!

 

「ボツ訳」-----------------------------------

① You know what, let’s go to Kyoto./You know what, I feel like going to Kyoto.

主語が明確なので自分への問いかけなのか、相手への提案なのかが限定されてしまいます。

② You know, Kyoto sounds nice.

日本語の「そうだ、京都、行こう」は自分への問いかけなのか、または相手への提案なのか曖昧なので、そういう面ではこの表現は合っているかと思います。"~ sounds nice"はある提案に対しての応答としてよく使われます。でもちょっと「京都」のイメージにはカジュアルすぎるかもしれません。

③ Wouldn’t Kyoto be nice?

ちょっとかたい表現です。

-----------------------------------------------------

ちなみに直訳すると、

“Oh yeah, let's go to Kyoto.”

 

がまずはじめにでてきたとか。さすがにあの荘厳な音楽が流れる中で「Oh yeah」と言われたらちょっと残念な気がしますね。

 

 

「きれいなおねえさんは、好きですか。」

f:id:MAKINO1121:20140413000201j:plain

 

 

こちらも92年ほど前から続いていたパナソニックの名作。直訳すると、Do you like pretty ladies? なのだそうですが… 

 

「テリー先生から一言」

Who would say no to a beautiful lady?

きれいな女性に"No"と言う人はいないでしょ?という意味で、beautiful は pretty よりももっと上品な表現です。

 

 

「きれいなおねえさんは、好きですか」の中にこめられた、「好きですよね?」というニュアンスを表現してくれています。さすがテリー先生。

 

「ボツ訳」-----------------------------------

Everyone likes pretty ladies, huh?

男性への問いかけで、ちょっとカジュアルで皮肉った表現にも聞こえます。pretty は響きが子供っぽくて可愛すぎる気がします。

――――――――――――――――――――――――――

 

さて、おつぎはこちら。 

 

 

恋が着せ、愛が脱がせる。

 

f:id:MAKINO1121:20140413000518j:plain

 

 

「恋が着せ、愛が脱がせる。」これは眞木準さんが書いた、伊勢丹の名コピー。でも正直に言えば「え、もう一回言ってもらえますか?」といいたくなるややこしさがあります。マキジュンさんはほかにも「恋さえあれば、愛などいらない」とか、恋愛コピーがいくつかありますが、「恋」と「愛」のニュアンスは難しいところ。さて、テリー先生は、どう訳したのか……!

 

 

「テリー先生から一言」

「恋」をしているときはその人のことで頭がいっぱいの状態になるので、"obsession(執着)"という言葉を使いました。一方「愛」とは、期待や欲望を捨て、広い心で見守るということだと思うので"letting go(手放すこと)”という言葉にしました。

 

 

 

むむむ、これは深い。「着せる」というのは、いろんなものを重ねていくという意味合いであり、「脱がせる」はそれらを取り払って裸の状態で相手をみることである……(ということでしょうかね)深い、難しい。恋とか愛とかそういうものの微妙なニュアンスを表現できなきゃコピーなど書けないのでしょう。

 

ちなみに、Romance is about dressing, love is undressing. だそうです。僕は、このコピーに関しては、この直訳でいいのかな、と思っています。この方が日本語コピー同様に考えさせる力があると思うので。

 

では4つ目。 

 

 

 

「愛とか勇気とか、見えないものも乗せている。」

これは知らない人もいるかもしれません。

1992年「九州旅客鉄道」に仲畑貴志さんが書いたコピー。とても車両の中でみんなが持っている想いをつい想像していまうすばらしい広告でした。 

これですね。

f:id:MAKINO1121:20140413000803j:plain

 

 

 

それを英訳すると…

 

f:id:MAKINO1121:20140413000212j:plain

 

 

「テリー先生から一言」

”all that matters”は「大切なもの」「お金では買えないもの」というような意味で、日本語の「見えないもの」に相当する表現だと思います。

 

 

“all that matters”にはそんなニュアンスがこめられているのですね。知らなかった。直訳は、We also carry love, courage and that which you can't see. これもいいと思います。

 

ボツ訳--------------------------------------------

① Love, courage, and the unseen. We carry them all.

英語で"carry(運ぶ)"は「物を運ぶ」というイメージが強いので、乗客(人)に対してはあまり使われません。

② We bring love, courage, and the unseen to their destination.

英語で”unseen(見えないもの)”というとお化けを連想させちょっと薄気味悪いです。

――――――――――――――――――――――――――

 

さて、本日のラストはこちらです

くうねるあそぶ

 

糸井重里さんがつくった名作コピーです。1989年の日産セフィーロ。(なんか昔のコピーばっかりになっちゃいましたね)

 

f:id:MAKINO1121:20140413000214j:plain

 

 

 

『テリー先生』の一言

Eat. Sleep. Play. 直訳も意訳も一緒です。リズム感がある表現です。英語にも "Work hard, play hard"という似たようなフレーズがあります。

 

 

 

「くうねるあそぶ。」が一つの文章になっているというところにも、「それらぜんぶつながっているのだ」というニュアンスがあるような気がします。「くう。ねる。あそぶ。」というコピーにもなってもよかったのですが、そこをひと単語にしたのはリズムとニュアンスをこめてひとつの文章にしたと思われます。そのニュアンスも、こんどまたテリー先生に聞いてみたいと思います。

 

 

さて、いかがでしたでしょうk。 

日本語のコピーを他言語に変換してみると、コピーにふくまれているニュアンスを深く読み取ろうとしなければなりません。訳す、という作業には、言語の仕組みを深く考える事でもあるので、コピーを訳すというのは、英語とコピー両方の勉強になっていいのではないかと思ったわけです。 

 

テリー先生、本当にありがとうございました!!!!

 

というわけで

みなさん、アプリダウンロードして使ってみてください!

400円ですが、本屋さんでうってるどの英語本より使えると思います。買って損はなし!!!

https://itunes.apple.com/jp/app/real-ying-hui-hua/id373563219?mt=8

 

 

Twitter はこちら https://twitter.com/real_eikaiwa

 

Facebookはこちら https://www.facebook.com/RealEikaiwa

 

(記事が人気なら第二回がもやります!)

 

以上です!

 

 

コピーライターじゃなくなりました!~大企業の異動ってそんなもんさ~

広告会社には「クリエイティブ」と呼ばれる部署、というか「肩書き」があります。ほかの言い方では「制作」と呼ばれたりもする人たちです。そこにはコピーライターがいてデザイナーがいてCMプランナーがいるわけですが、いかんせん、名刺を交換するときに「クリエイティブです」というのは、とても恥ずかしい感じがするものです。

 

僕は博報堂に新卒で入って、思いもよらずその「クリエイティブ」に配属されました。入社研修までは「コピーライターなんて変わった職業、専門職として採っているのだろう」と考えていました(実際デザイナーはデザイナー採用があります)。しかし驚くべき事にコピーライターという仕事は「総合職」の中から配属されるのです。100人入社したら5人くらいが配属されます。営業志望だった僕にとってはたいした興味もないことです。まさか自分がコピーライターに配属されるまで。

 

コピーライターに配属された当初、少しは戸惑ったものの、とても楽しそうな仕事だったので未来に向けて希望に満ちた心持ちだった気がします。コピー年鑑とかいう分厚い本をひたすら眺めたり、写経したり、コピーを書いてみたり。もともと僕は言葉や文章が好きだったから、そういう意味では「向いた」仕事だとも思います。

 

で、話は飛びましてようやく本題にはいると…。

そんな僕はコピーライターではなくなりました。会社における肩書きの話です。四月一日付けで部署の異動がありまして(自分にとって初めての異動でありまして)、一応「営業」職に変わりました。名刺にはそのようなことが書いてあります。

 

「コピーライターから営業なんて大変だね」という、ちょっとした同情のような気遣いめいた反応も少なからずあります。多くの制作から見れば、ずっと制作でいたいのだからそういう反応も最もらしいものです。ただ、僕にとってはとても新鮮で、楽しみな異動です。

 

入社して、なんの巡り合わせかは解らないけど、コピーライターになれたことはとても大きかったしありがたかった。ざっくり言って「仕事は、ただの作業ではなく、創造するもの」だという認識が、制作に5年いて手にした大きな財産です。(もちろんそうでない仕事もありますが)

 

そんな僕は肩書きが営業になるわけですが、制作であることを変えるつもりありません。仕事とは、「肩書き」が決めることではなく、「姿勢」が決めるものだと思うのです。博報堂にいて、いろんな営業をみていて「どうしてこの人たちは、自分で考えて、自分でつくらないんだろう」というようなことをよく思いました。脳みそならお前だって持っているだろうと。(ちゃんとした人だってたまにいます)

 

CreativeとかCreativity って、「創造性、想像性」という訳されるけど、Creativity の 訳は「自発性」じゃないかと僕はたまに思います。そしてそれが最も社会の中で活躍するために必要な才能だと。

自分が何をしたいか。自分ならどうしたいか。自分で行動し、何かを作り、社会を少しでも動かすこと。その「自発性」さえ持っていれば、営業でもマーケでも、その人は全くのクリエイターなのだと僕は認識しています。

 

だから、僕の姿勢は別に変わる事はないのだけど、やれることはいろいろ増えそうなので楽しみです。営業になることで、クライアントとつながって、アイデアを考え、自分で企画して、自ら提案しちゃえばいいなんて、楽しみすぎる(そんなに甘くないぞという声が遠くから聞こえます)。

 

思いもよらずコピーライターに配属され、人生が大きく動きました。そしてまた、営業に配属され、大きく変われる気もします。それはそれで、「大企業の理不尽な異動」ってのものなかなか悪くないな、と僕は思うわけです。

 

以上です

 

ここに書いたのは「コピーライターの目のつけどころ」なんていうページ書いてるくせに「あいつコピーライターじゃないのかよ」という突っ込みがどこかで起きないように、と。そして別に変わらず続けていこうと思うので、どうぞ宜しくお願いいたします!