文鳥社とカラスの社長のノート

株式会社文鳥社/ 株式会社カラス のバードグループ代表をやっています。文鳥文庫を売ったりもしています。

先生、大学って、ほんとうに必要なんですか。

大学にいかなくちゃいけないものですか。というようなことを、高校の頃に先生に聞いたことがあった。どんな答えが返ってきたかはよく覚えていない。それくらいには曖昧な回答だったのだと思う。今とは比べ物にならないくらいに無知だったので(今も無知なんだけど)、そんなものかと諦めて大学勉強をはじめた。受験勉強はゲームのようで割と楽しく進めることができた。 そんなわけで、早稲田大学の理工学部に入学した。大学時代について語れることはあまりに少ない。そこそこに勉強し、そこそこにアルバイトをし、そこそこに遊んだ。何かを成し遂げることもなく、自分の人生の中でも極めて微妙な時期だったことは間違いない。あまりに暇だったので、たくさんの本を読めたことは、とてもいいことだったと思っている。 結局、その大学でも自分のやるべきことを見つけることができず、その後東京大学の大学院までいくことになった。6年間も学生をしてしまい、それなりに学びにはなったけれど、社会にでたほうがよほど成長できただろうと、かなり後悔している。親のお金で大学に行っていた人のなかで、「その分、死ぬほど勉強しました」と言える人間がいたら教えてほしい。少なくとも俺の周りにはひとりもいない。

 

bylines.news.yahoo.co.jp

 

駒崎さんの記事が話題になっていた。駒崎さんのメッセージ性の強い記事が好きだし、この内容自体はとても勉強になる主張だった。しかしとても大きな違和感が残る。それは、「大学に行くことが圧倒的な正義である」かのような前提のもとに話が進んでいるところに起因している。読みながらモヤモヤしてしまう。 「大学って、ほんとうに必要なんですか?」もしくは、「こんなに多くの人が大学に行く必要がありますか?」ということをもっと議論したほうがいいと強く思う。自分なりの結論を先に書くと、ほとんどの人にとって大学は不要であるにもかかわらず、そのほとんどの人が大学に行くことで、個人にっても社会にとっても無駄ばかりが生まれている、と考えている。 駒崎さんの記事に限らず、今の日本社会には「大学にいくことが正しく、幸福なことである」という思想が根底に流れている。逆に大学に行かない(行けない)というのは不幸なことである、と多くの人が考えている。だから記事のような議論になる。ぶっちゃけたところ、「大学に行ってない人ってかわいそう」と「大学に行った多くの人たちが下に見ている」という社会の構図が確実に存在している。それは今の社会にはびこる巨大な偏見のひとつだ。 その昔、大学というのは裕福や健全の象徴のようなものだったのだったのかもしれない。社会が今よりも貧しく、未熟な時代。学びたくても、学べない時代。月明かりで本を読んでいた人がいたというその頃、大学というものは、とても崇高な場所だったのだろうと思う。必死に勉強した先人たちのおかげで社会が豊かになり、実際に多くの人たちが大学に行くようになった。 その結果、「とりあえずみんなが大学に行く」という思想が社会に蔓延した。「何かを学びたい人が行く特別な学校」である大学という本来の存在価値は消え去り、ほとんどの人間は、学びたいこともなく、意思もなく大学に行くようになった。そして4年間、高い学費を支払い(多くは親に出してもらって)、大して学ぶこともなく、ロクでもない大学生活を過ごす。自分の大学生活を通して、そういった人たちを目の当たりにしてきたし、僕自身がまさにそのひとりだった。 そんな風に大学に行く意味ってどこにあるのだろう?モラトリアムにしては、4年間は長すぎるし、学費は高すぎる。働きながら(アウトプットしながら)学ぶ方がよほど身になるだろうとも思う。

本当に学びたいことがある人間だけが大学に行く社会。 

 

結局のところ、「何か特別なことを本気で学びたい」と考える人間だけが大学に行くような社会にすべきなのだと思う。そんなこと、僕が今更いうまでもなく、大学というのは本来そういう場所だったはず。

 

みんながみんな大学に行く必要なんてない。「勉強はしたくないけど大学に行く」なんて時間の無駄だ。大学の数をできるだけ減らして、「本当に学びたいという意欲のある人」が行くようになればいい。長期的な技術の発展と研究に貢献したいと思うような人だけが行けばいい。今の大学には1%くらいしかいない人種だ。

 

あとは、「大学」と「働く」の順序を逆にするのもいいと思う。社会に出て仕事をする中で自分がやりたいことは見つかるもので、「もっと学んでおけばよかった」と思うのは、だいたい働き始めた後のことだ。「自分が何を学びたいか、18歳でわかるわけがない」という声があがると思う。その通り。だから、働く中でそれを見つけ、その後に大学に行くような仕組みづくりが重要になる。

 

僕自身で言えば、大学を出たあとに広告制作の仕事をするようになってから、美大に通いデザインをきちんと学びたいと思うようになった。高校3年生のころの自分には、美大という選択肢は頭の片隅にもあがらない。なぜなら社会を知らなかったから。今はまだ行けてないけれど、2,3年後には美大に通うことを考えている。

 

だから、自分の子どもには、よほどのことがない限り大学に行かせる気はないし、自分が今つくっている会社は、いつか「高卒採用」を基本にしていきたいと考えている。しかしながら、いま具体的に計画していても、その実現は簡単なことではないと痛感している。社会があまりに「大卒思想」に偏っている。

 

いつか、新卒採用のなかで、「高卒採用」が当たり前になるような社会になるといいなと考えている。とても切実に。だから、大卒思想が当たり前になってしまった今の社会に対して、もう一度問いかけておこうと思う。

大学って、ほんとうに必要なんですか?

 

大人はええぞ。

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まずな、宿題がない。

うまいもんが食える。

な、ええやろ。

やりたいことができる。

好きな仕事が選べる。

じぶんでお金を稼げる。

好きな人と結婚できる。

ええやろ?

それからいちばんええのはな、

大人になってからでも

いくつになっても

なんぼでも

やりなおしがきくことや。

 

好きなことやったらええ。

楽しみやなぁ。

 

家族で話そう。福井新聞

 

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何年か前にこんな広告があった。コピーライターになりたての頃に読んだことを覚えている。その時は素敵なメッセージだと思い、自分もこんなコピーを書きたいと思ったものだった。

 

先日、久しぶりに見かけて読み直していたら、なんとも言えない大きな違和感を覚えた。今これを出したら、きっと炎上するだろうなとも思った。「宿題たくさんあるんですけど」とか、「働きたくても働けないやつもいる」とか、「好きな人と結婚できない人がほとんどです」とか、いろいろ怒られそうだ。

 

社会が非寛容的になっているのかもしれないし、WEBのおかげで正しい監視機能が働くようになったのかもしれない。それとは別に、自分が32歳になってみて「大人はええぞ」と言うことの難しさを痛感していることが違和感の正体かもしれない。

 

大人になるということと、「働く」ことは切り離せない関係にある。大人を楽しむということは、仕事を楽しむことに近しい。では仕事とは何か。自分の能力を使い、他者に貢献し、見返り(主にお金)をもらう。それが仕事というものであり、それは本来、とても楽しいことのはずだ。

 

パンを焼いて、それを買ってくれて、喜んでくれる人がいる。社会の課題を解決するサービスを作って、それを利用して、感謝してくれる人がいる。小説を書いて、それを読んでくれて、感動してくれる人がいる。人に貢献できたら嬉しいし、お金をもらうのも嬉しい。だとしたら、仕事が楽しくないわけがない。

 

もちろんそれらは簡単なことではない。たくさんの努力が必要だし、多くの時間もかかる。だけど、がんばった結果、「昨日はできなかったことができるようになる」ことの喜びはとても大きい。気持ちのいい仕事ばかりでもないけれど、何かを成し遂げた後に仲間と飲むビールは何ものにも代えがたく美味しい。間違っても「仕事=誰かにやらされるもの」であってはならない。

 

そして仕事の結果として手にしたお金でいろんなことができる。誰かとおいしものを食べ、服を買い、旅にでられる。いま俺はデニーズでハンバーグを食べながらこの文章を書いている。そんな自由もとても楽しい。そして万が一何かあったところで、餓死するようなこともない。「好きなことをやったらええ」のです。

 

世界的に見ても、歴史的に見ても、こんな自由で豊かな社会はきっと類をみない(あったら教えてほしい)。自由も責任も自分にある。厳しい言い方をすると、いまの日本社会で、他人のせいにできることなんてほとんどない。だからこそ、高度な悩みに苦しんでいるのかもしれない。

 

僕たち大人の現在は、子どもたちの未来そのものでもある。

教育システムがどうのこうのいうよりも、「大人はええぞ」と言える大人が増えることが、全力で今を生きる大人が増えることがいい社会づくりにつながっていくのだと思います。

 

だからこそ心の底から「大人はええぞ」と言える大人の一人になりたいものです。

以上をもちまして、新年の抱負とさせていただきます。

とあるダメな新米コピーライターの話。

先日、博報堂の先輩と飲みながら、昔話をした。

とある「コピーのかけないコピーライターの話」だ。

 

そのコピーライターは、本当にダメコピーライターだった。広告のイロハもわからず、きちんとした文章を書く訓練もされていなかった。出身が理系だったから、理屈はわかるが、おもしろくない。そういうやつだ。

 

とある新規プロジェクトが始まったとき、上司のCDは言った。「この仕事はお前がメインのコピーライターをやろう。」そのコピーライターにとって、始めてメインではいる仕事だから、そいつはとても喜んだ。半人前から、一人前になったような気がしたのだろう。その仕事に全身全霊で懸命にとりくんでいたし、実際に眠る時間も家に帰る時間も惜しんでコピーを書いていた。

 

だけど、彼には何も書けなかった。気の利いたキャッチコピーも、深みのあるボディコピーも書けなかった。PCと紙とを交互に向かい合って書いたりしていたけど「広告になる文章」を書くことができなかった。でもコピーライターが書けなかろうが、締め切りの日はきちんとやってくる。いくら努力をしても、締切は待ってはくれない。

 

クライアントにコピーを提案する日が来ても、社内の制作チーム(営業、CD、アートディレクターの方々)が、納得するものを書くことはできなかった。でも提案の日時はちゃんとやってきた。

 

提案の日時になっても、コピーはない。先輩営業と営業部長は、何も持たずにクライアントへ行き「うちのコピーライターが頑張っているから、もう少し待ってほしい」と言いに行ってくれた。しかもそれが2,3回続いた。いつまでも、コピーライターがコピーを書けないがために、その営業の二人は、ただただ謝るためだけにクライアントへ足を運んでくれた。

 

でも広告の出稿の時期だけは絶対にズラすわけにはいかないから、当然締め切りはやってくる。営業は「二年目のあいつだけじゃ足りない。もっと経験のあるコピーライターをいれるべきだ」と、コピーライターの上司であるCD(クリエイティブ・ディレクター)に掛け合った。博報堂の営業はプロジェクト・マネジメントが仕事だから、当たり前の判断だった。しかし僕の上司であるCDは、首を縦にふらない。「大丈夫、あいつならできるからこのメンバーでやる」と言っていた。

 

コピーライターは締め切りの直前まで、コピーを書きつづけた。しかし終ぞ、みんなが納得するコピーを書くことはできなかった。結局、締め切りの直前に、上司のCDが書き直しをして、それをデザインに反映させて提案した。上司が書き直したボディコピーは、新米コピーライターがつくるより格段によくなっていた。

 

広告は無事に完成し、世の中にもきちんと出た。それはとてもいい広告だったと思うけど、自分はその広告をみて「自分がやった仕事だ」なんてことは決して思えないものだった。この仕事で、初めて泣いた。悔しくて泣いたのなんて、高校の部活の試合で負けたとき以来だったかもしれない。

 

そんな昔話を、営業の先輩と二人で飲みながら話をしたら、また泣きそうになった。

 

あるところにコピーの書けないコピーライターがいた。それでもできると信じて、成長を見込んで、仕事を任せてくれた上司がいて、クライアントに迷惑をかけても謝りにだけいってくれた営業の人たちがいた。本当に、本当にかっこいい上司たちだった。

 

本当にすばらしい場所にいたんだな、と最近になってつくづく思う。 

あの頃の恩を、今も返せていない。

それをいつか返せるようにがんばろうと思うけれど、まだその見通しもない。

だけど、今もあのときの背中を追いかけて、仕事をしています。

ありがとうございました。

 

 

 

 

『デザイン思考』とは何か。

2015年は「デザイン思考(Design Thinking)」という言葉が日本で割と一般的になった年だったような気がします(この一年で「デザイン思考」にまつわる本が100冊近くもでたとか)。しかしながら、その本質を理解している人はとても少ないようです。当たり前なのですが「デザイン思考とは何か」を理解するためには、「デザインとは何か」を理解する必要があります。日本はデザインに対する教育が、義務教育はもちろん大学ですらほとんどないので、デザインのことを理解するビジネスマンがとても少ないのが現状です。

 

デザイン思考語るのは、一筋縄でいきません。なんとか一言で言い切ってしまうとこうなります。

 

本質的な問題の発見/設定し、②「感性」に則った「創造的」問題解決を目指す思考。 

   

①を「水平思考」と呼んだりもするようです。何か課題に直面した時に、「どこに問題があるのか」を正確に把握する必要があります。常識、慣習にとらわれずに、ゼロベースで現状を見極め、問題を発見する力です。これが案外難しいものです

 ②の「創造的な手法」とは、今はない何かを創造することによって、問題を解決することです。やり方を少し改善するとか、回数を増やすとか、そういう「既存の延長線上の考え」ではなく「創る」ことによって問題を解決することです。そしてそれらは往々にして「ひとの感性」をうまくとれえることが重要になります。それが「デザイン」たる所以です。

 

と言ったところで、「デザイン思考」の概念はとても分かりづらく説明しづらいので、具体例をもって語るのがいちばんいいです。というわけでいくつかケースをあげました。参考書は「宇宙兄弟です。

 

1. 公共のトイレの掃除

2. フジテレビの視聴率低迷の原因

3. 宇宙兄弟に学ぶデザイン思考①「コロッケ・イノベーション

4. 宇宙兄弟に学ぶデザイン思考②「ロケットの打ち上げの費用を下げるには」

5. 「文鳥文庫」自社プロダクトの紹介 

  

 

--------CASE1 公共のトイレの掃除 -----------

 

例えば「駅のトイレをきれいに掃除をする」ことが課題だとします。駅や空港といった公共施設では、トイレの清掃は大きなオペレーションです。そして、公共トイレというのは、放っておくとあっという間に地獄のような状態になります。

 

さて、どうするといいでしょう。トイレの掃除の回数を増やすかもしれない。ルンバのようなトイレ掃除機を開発するかもしれない。汚れを取りやすくするモップを開発するかもしれないし、汚れにくい「抗菌」の床をつくるかもしれない。トイレの構造を変える必要があるのかもしれない。

 

どれも正しい解決方法です。

 

だけど例えば、「汚れたトイレをどう効率良く掃除するか」という考えから離れて、「そもそもトイレを汚れないようにする」ことのほうが「解決すべき問題としての優先度は高い」はずです。なぜなら汚れなければ掃除をする必要もなく、あらゆる意味でコストが下がるからです。

 

そこから先もいろいろ考えはあると思いますが、 例えばそこで「トイレの底にシールを貼る」、という解決策を思いついた人がいたらそれはデザイン思考の持ち主です(このケース、男性しかわかりませんよね、すみません)。

 

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そこに的があれば、狙いたくなってしまう。それが男の性(本能)というもの!その「感性的」な行動を利用して、汚くなる可能性を下げることに成功するという話です(女性のみなさん、何言ってるかわからないでしょうけど)。一説によると、関西国際空港の方が思いついたアイデアだとかで、ものすごくトイレがきれいになり、掃除が楽になったということです。

 

トイレを「どうきれいにするか」ではなく「そもそも汚さない仕組みはないのか?」という問題設定に切り替えられるかがポイントであり(①本質的な問題の発見)、これが意外にできません。

 

さらに「シールを貼ったら、みんなそこに狙い撃ちするんじゃないか」という創造性(②創造的な問題の解決)は本当にすごいものだと思います。とても安価で、リスクの少ないチャレンジです。

 

--------CASE2 フジテレビ視聴率低迷の原因--------

一旦話がずれます。逆に「デザイン思考」が足らなかったケースを紹介します。それはフジテレビの凋落の原因に関してです。

 

フジテレビが見られなくなった理由はいろいろあると思うのですが、「テレビ欄がいちばん右側になった」ことが大きく関係していると思います(すでに多くの人がこれを指摘しています)。

 

ご存知の通り、地デジに変わるときに、チャンネルがガラッと変わりました。フジテレビは「8」という数字をキープする選択をしたので、テレビ欄がいちばん右側に移りました。慣習的に、テレビ欄は左のほうからみていきます。「人は数字を1のほうから追っていくほうが気持ちがいい」からです。リモコンも1か、もしくは4から順に押していくひとが多いのではないでしょうか(もちろんひとによっては逆からの人もいるとは思いますが)。

 

そうなると、テレビ欄を見たときも「フジテレビは最後にみる」し、チャンネルを順に押していくことにより「フジテレビは最後にみる」ことになります。視聴率争いにおいて、フリになるのは当たり前です。もちろんその証明になるわけではないのですが、現在の視聴率ランキングは、ほとんどチャンネル番号の順位になっています (テレ東も昔より伸びてますし)。

 

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2016年3月期・上期視聴率

 

今さらなにを言ってもあとの祭りですが、デザイン思考(人の感性部分)をより意識し、大切にし、「人の感性的行動の大切さ」を追求できる人が必要だったのだと思います。いいテレビ番組をつくることと同じくらい、「チャンネルの順番」が「テレビをみるひとの行動を左右する」だろうともっと検証が必要だったように思います。創造的な解決の話ではありませんが、こういった場合にも「デザイン的思考」はあらゆるビジネスに重要になるのだと思います。

 

宇宙兄弟」に学ぶデザイン思考

宇宙兄弟」という小山宙哉さんが書かれている漫画があります。僕はいろんな意味でこの漫画が好きなのですが、読むたびにその創造性に驚かされます。そこらへんのデザイン思考の本を読むより、よっぽどデザイン思考が学べる書籍です。物語のなかで生み出される「デザイン思考」を2つ紹介します。※ネタバレですすみません

 

CASE3 コロッケ・イノベーション

 

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例えば「コロッケの売り上げをあげる」という課題があるときに、何を問題とするかは無数の考えがあります。味、素材、ネーミング・・・。しかし、コロッケにおいて「カタチ」を重要視するのはなかなか生まれない問題提起です。

 

コロッケは丸いというのは、地球が丸いのと同じくらい当たり前のことだからです。生まれたときからコロッケはずっと丸いので、その固定概念からから抜けさすのは至難の技です。

 

 

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そしてこのタブさんは、このセリカちゃんのために、新しいコロッケを開発します。それがこのハート形のコロッケです。ハートのほうがなんかちょっとおいしいね」というセリフがこれまたいいです。こうして、新しい「人の目を引く」「ひとの愛着をとらえる」コロッケがこの世界に「創造」されました。イノベーションは別にテクノロジーばかりじゃないんだぞ、と思い知らされました。

  

---------CASE3 ロケットのコストを下げる---------

 

ロケットの打上げには膨大なコストがかかります。 そのコストを下げることが主人公ムッタの使命となります(21巻)

 

さて、打上げコストを下げるには「ロケットを軽く」することが最重要課題です。そしてそのために、月面の開発に使う資材をどれだけ「減らせる」か「軽くする」ことが大切になってきます。しかしながら、資材のコストを一つ一つ軽くしていくことはとても手間がかかるし、ものすごく軽くなることは期待できません。そこで主人公ムッタが考えるアイデアは「必要な資材を月面で作ればいい」というものです。

 

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3Dプリンター1台を月に持っていくことで、その他の資材は月で作れるようしてしまえば、いちいち地球から運ぶ必要がありません。その素材は月にある砂、レゴリスを使うので原料は月にいくらでもあります (本当に月の砂で作れるかどうは知りませんが)。

 

「打ち上げのロケットを軽くしろ」という課題に対して、積荷自体の「軽量化」という、垂直思考から抜けだして、「月で作ればいいじゃないか」という問題をすり替えることは、なかなか出来ることじゃありません。

 

ケースを見ているだけだと「なんだ、そんなこと簡単じゃないか」と思われるかもしれませんが、これは本当に難しいのです。宇宙兄弟を書いている小山さんは、間違いなくデザイン思考の達人だと思います。日本のメーカーのコンサルティングをしてほしいくらいです。

 

 

--------CASE5 文鳥文庫---------

ここぞとばかりに自社のプロダクトの話で恐縮ですが、文鳥文庫というものをつくりました。16ページ以内の素晴らしい短編小説を、蛇腹型に印刷して、カードのように販売するものです。 

 

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数ページの作品を収録するには、製本するよりも、蛇腹型にしたほうが安定しますし、案外、読みづらさはありません。従来の本という形式は、短い作品に適していません。だから、走れメロスなどは「短編集」として販売せざるをえませんでした。それは本というデザインに瑕疵があったと言えます。短編には短編にあった「本の姿」を考える必要がありました。それで今回、こういった蛇腹型の形式で販売することになりました。

 

「本」という枯れた文化であっても、まだ新しくデザインされる可能性がいくらでも残ってるのだから、どんなもにでもきっとその可能性があるはずです。

 

どうして今「デザイン思考」が重要視されているか。

縄文時代に土器を作ることも立派なデザイン思考でした。椅子を作る、机をつくる、お箸をつくる。全部デザイン思考によって生まれたものです。ずっと昔からあった、人間的な行為です。

それにもかかわらず2016年になった今頃「デザイン思考」とか言われている理由は、社会から「創造性」が減ったからです。物が溢れて「創造する対象が減った、または難しくなった」ことにより「創造しようとする人」が減ったのだと思います仕事の多くが、創造することではなく、従来のシステムを回す労働に費やされています。生産性が低い国と言われても仕方がありません。  

 

たまに「デザイン思考とはプロセスである」という説明を見かけますが、これは間違いです。デザイン思考は、プロセスではなく、思考・姿勢です。大手のデザインファームが「売りやすく」するためにプロセス化しているにすぎません。

 

デザインファームが大手の企業にたいして行う「デザイン思考ワークショップ」は、数千万円、ときには1億円かかることがあります。3ヶ月くらいのプロジェクトを組み、テーマをブレストし、拡散してから、壁にポストイットを貼って、フィールドリサーチに出て、写真をとったり、プロトタイプを作るなどをします。しかしながら、ご想像のとおり、そこで何かが生まれることは稀です。そもそも、僕はデザイナーがポストイットを壁に貼ってる姿なんてみたことがありません。 

 

結局のところ、デザイン思考は、デザインとほぼ同義です。それはとても個人的でストイックな「創造性」です。卓上のPC画面だけでは考えられない、現場主義であり、常識や前例にとらわれない自由さが必要になります。もし本当にデザイン思考を学びたければ、デザインを学ぶべきです。世界の成り立ちを知り、空間のことを考え、素材に触れ、技法を学び、なにより「ものをつくる」ことです。

 

どうか、日本の企業のみなさんは、高いお金を払って「デザイン思考ワークショップ」なんてものを買うのはやめてほしいと思います。それは、創造性の放棄に等しい行為だと思います。

  

 

こんな記事が広がっていました。言いたいことはその通りなのですが、1つめの「“デザイン”の概念がどんどん広がっていく」というのは、完全に間違っています。デザインの概念は広がることなんてくなく、いつの時代も変わらないものであり、それはつまり「よりよい、正しい社会」を追求する行為です(詳しくは以前会社のブログにも書きました)。

 

デザイン思考という言葉に、大した意味があるとは思っていません。「データ」と呼んでいたものを、ある日から「ビッグデータ」と呼びだしたということに近いと思います。言葉に本質的な意味はありませんが、それによって、デザインに対する興味を持つひとが増え、実際にデザインするひとが増え、そしていいデザインが生まれるようになれば、よりよい社会になっていくだろうなと期待しています。

 

みなさん、ぜひとも宇宙兄弟を読んで、デザイン思考を学んでみてください。

 

宇宙兄弟(1) (モーニングコミックス)

宇宙兄弟(1) (モーニングコミックス)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

起業して、よかったこと、悪かったことを、つらつらと。

2015年に取り組んだ最も大きな仕事は「会社を辞める」ことでした。

たかだか会社を辞めるということが、どうしてあんなに大仕事になるのだろうかとも思いつつ、半年がたち、振り返ってみて「辞められたこと」は、やはりとても意義のある出来事だったと考えています。

 

どうして博報堂を辞めたのかに関しては、大きなところから小さなところまであるし、ネガティブもポジティブなこともあるしと、数えだしたらキリがありませんが、いくつかキーになったことだけ書いておこうと思います。

 

 

⑴ 6年周期信仰

「会社の常識は、社会の非常識だ」と誰かが言いました。本当にその通りだと思います。どれだけ大きな会社だとしても、そこはとても小さな社会です。

なかでも博報堂という会社は、とても独自的であるがゆえに閉鎖的で流動性のひくい会社でした。その中に留まることに対する危機感は絶えずありました。大前提として、一つの場所に留まることは、成長という観点で言えばとても危険なことだと考えていたからです。それが例え、どれだけ優れた組織であれ。

 

自分は「6年周期信仰」というものを、やんわりと持っています。小学校に入るまで6年。中高で6年。大学・大学院で6年。会社生活も6年で、ちょうど30歳でした。はじめの一歩を踏み出す、背中を教えてくれるきっかけとしては、ちょうどいいジンクスです。

 

⑵  「つくる側」にいくこと

入社してすぐ「クリエイティブ局」に配属されコピーライターをしていました。広告クリエイターという仕事は、なんだかとても「もてはやされ」ています。それがとても不思議でした。なぜなら広告クリエイターよりも、メーカーの人たちのほうがよほど「創造的な仕事」をしているように思えたからです。 

広告は、他人のお金で、人の意思の範疇で何かを作ります。金銭的なリスクもなければ、責任をとることも稀です。極端な話「当たれば広告のおかげ、外れたら商品のせい」にできてしまう世界です。もちろん素晴らしいCMやグラフィックを作るひとはたくさんいたし、それはものすごい才能と努力の賜物です。だけど自分のリスクをとって、ゼロからものづくりをするひとに、より強い憧れるようになりました。プレゼンをしていても「あっち側に行きたい」と思ってしまうのだから、もう行くしかありません。

 

⑶ くだらない組織事情からの解放

ただの愚痴ですが、会社のくだらない仕組みがとても嫌いでした。20人もいるような会議がありました。誰も読まない議事録を書くことがありました。外部の業者を呼んだくだらない研修がありました。動き出すまえに「説明しなければならないひと」が多すぎました。この時代に「出先表」を書けと言われることがありました。30歳にもなって、そんなことに縛られている自分にうんざりしていました。

 

会社を辞めてからのこと

「文鳥社」という会社をつくりました。そこで「文鳥文庫」というプロダクトをつくりました。いま思えば、自分たちの手で何かをつくり、自分たちで販売するというのは初めての経験でした。それらを喜んでくれるひとがいる、というのは本当にうれしいことです。 文鳥文庫は、ネットや書店を通じて、いい感じに販売をスタートできました。

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 (写真は「無印良品 有楽町店」 文鳥教の祭壇と呼ばれています)

 

第二弾では尊敬する村上春樹さんの作品「四月のある晴れた朝に100%の女の子とに出会うことについて」を出版しました。まだはじまって間もない文鳥文庫から出版できたるというのは、夢のような話です。無印良品さんで取り扱っていただけていることもありがたいことです。文鳥文庫という一つのプロダクトを通して、多くのひとに出会え、繋がれたことは1年間の大きな収穫でした。

 

<目覚まし時計のない生活> 

当たり前ですが、仕事の環境が変わりました。時間の自由、為すことの自由があります。全ては自分の裁量次第であり「くだらない会議」なんてものはなくなりました。毎日、あたらしいビジネスのことを考えられるのはとても楽しいことです。

 

例えば、この半年、ほとんど「目覚まし時計」をかけなくなりました。午前中には打ち合わせをいれないようにして自分の作業にあてているので「無理をして起きる」ということが必要なったからです。目覚まし時計ほど人の体に悪いものもないのではと最近は考えています。そして、不思議なことに、前よりもちゃんと起きています。

 

<反省> 

しかしながら、会社を始めてみて、反省点があまりにたくさんあります。正直にいえば、ちょっと舐めてました。

 

雇用というものは、本当に難しいことなのだと実感しました。 誰かを社員としてきちんと雇用することがまだできていません。世の中の会社は、こんなことを平気でやっているんだからみんなすごいものです。

 

また、ストレスという意味では、以前と変わっていません。ストレスって環境じゃなくて、自分の性格次第なんだな、と実感しています。くだらない打ち合わせのストレスは減ったけど、お金のことを考えるストレスは増えました。営業も、資金繰りも、在庫も、デザインのことも、トイレットペーパーのことも考えています。ミスが多く、たくさん損をした部分もあります。

 

<失うものなんてなかった>

辞めてから気づいたのですが、辞めてから失ったものって本当になにもないのだな、と。安定のサラリーくらいですが、同じ量働けば同じくらいは稼げるものです。

大学を出たばかりの頃、自分はなにも持っていなかった。そこに戻ったような感じがします。というか、別に博報堂にいたときだって、なにも持ってなくて、何かを持っているような気がするだけでした。ゼロからまた始められるというのは、とても楽しいことですね。

 

<つくること、うごくこと> 

小さな悩みは増えましたが「大きな悩み」がなくなりました。それは「自分の人生はこれでよいのだろうか」という漠然とした最も大きな悩みです。会社にいるときは、その亡霊のような悩みに付きまとわれていた気がします。こういった「漠然とした亡霊のような悩み」は、歩き出すとたいていは消えさるものです。

 

困難の数は変わらないけど、進むべき道は間違っていないという実感があります。「何かを作り、販売する」というシンプルなことが、圧倒的に楽しく、素晴らしい仕事であると実感しています。だから総じて、2015年、辞めたことは大きな一歩でした。

 

辞めて拓ける世界があることは事実です。新しい結びつきがたくさんありました。そこからいくつかは仕事となり、形になっていくのが今から楽しみです。今年はいくつかの事業を形にし、収益をあげ、ひとを雇用していける一年にしようと思います。

 

次に6年周期を迎える36歳までに、どこまで自分と会社を成長させられるか。それを考えると、楽しみもあり、不安もありますが、飛ぶ鳥を落とさない程度に、頑張っていこうと思います。

 

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 (仕事を見にくる文鳥会長の写真)