「経済成長」が、死語になる日まで。
この文章のテーマは何かと言えば、「これからの時代のいいアイデアは、経済を縮小させる」ということです。
この前、ある学生さんから、不思議な話を聞きました。
とある「アメリカの電気自動車メーカー」と、とある「日本の大手自動車メーカー」が提携を解消した理由です。その学生が日本の自動車メーカーの社員から聞いたところによると「電気自動車の生産は、通常の自動車の生産よりも、雇用人数が少なくて済んでしまう。だから、私たちは、電気自動車はつくらないことにしたのだ」と。
学生さんから聞いた話だから、真実かどうかはわからないし、その社員のただの詭弁だったのかもしれない。でもとにかく、こういう考え方が確かに存在している。そして本当に間違った考え方だと思う。働く人を増やすために仕事があるのではない。何かやる意義があるものごとがあるから働く意味がある。
しかし、経済を回すために、社会を成立させるために、雇用を生み出さなければならないということは確かだから、簡単には笑えない。難しいテーマです。穴を掘らせろ、という話です。
例えば、この前フェイスブックで見かけたこのニュース。
大学で傘の共有サービスが普及しているという話。とても良さそうなサービスで、記事のタイトルにもある通り、 世の中には「消費」から「共有」という流れがある。別に真新しい話ではまったくない。
しかし、これをやられると「傘メーカー」は困る。傘の消費が減れば、傘をつくる会社の仕事は激減する。「コンビニ」も傘が売れなくて困る。それは「経済」という魔物からすると、あるまじき行為なのかもしれない。まぁ傘くらいどうってことないかもしれないが、それが車になると大変だ。カーシェアリングが普及して、みんなが必要な時に「借りる」だけでは自動車の利用が少なくなってしまう。日本を支える巨大産業が崩れたら、日本は立ち行かなくなってしまう。
僕は「自転車」が好きだから、都内なんて車よりも自転車をメインにした都市にしたいと切実に思う。車よりも安くて、ガソリンも電気も使わないし、運動にもなる。ガソリンへの依存をできるだけ減らせば、原発に頼る可能性だって少しは減る。でも経済にはきっと貢献しない。GDPは下がるだろう。それも今の「社会」がよしとはしないだろう。
しかし、みんなが傘をシェアする社会をつくり、傘の消費量を減らすことは「社会の成長」ではないのだろうか?
物事が飽和した、豊かなすぎる先進国において、「いいアイデア」は、経済を縮小させる。それは多分間違いない。ロボットだってそうだし、シェアエコノミーだってそうだし、大抵のイノベーションだってそうだ。
人々ができるだけ豊かに生きるために、テクノロジーを進化させてきたのに、「テクノロジーに仕事を奪われる」ことに怯える人々がいる。どうしてだろう?人の仕事が減ったのなら、そのあいた時間を、歌をつくり、絵を描き、夢を追う時間に使えるはずではなかったのだろうか?ムヒカ大統領が言っていることと、まったく同じ話。
10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。
もうね、正しすぎるスピーチなのですよ、これは。ものすごく、正しい。きっと、みんなもそう思うはず。しかしながらこのスピーチが話題になってずいぶんたつが、世界にあまり変化はないように思う。誰も今のシステムに争うことはできないし、それくらい今のシステムは強大で、恐ろしいものだ。僕は今も、iMacでこの文章を書いている。その時点で間違っているのかもしれない。どこかで生産された、電力を使って文章を書いている。
そういう意味で、僕たちは「経済」という魔物の手のひらで生きている。経済は、人間がコントロールできなくなった魔物だ。でもそろそろ、少しずつ、終わりが見えてきた気がしている。 GDPの成長は鈍化し、経済は弱体化しつつある。もしかしたら、それは悪いことではないのかもしれない。なぜなら、僕たちは「経済」を「成長させる」ために生きているわけではないからです。「経済成長」はもう間違った考え方になってきている思う。いつの日にか必ず、「あの時代は経済という魔物に支配された時代だ」と言われるようになる。
ドワンゴの川上さんの言葉にもとても好きなものがあります。
人生の賞味期限について - 続・はてなポイント3万を使い切るまで死なない日記
それで咲いたあだ花は、きっと自分がいなければこの世に存在しなかった花だろう。
そしてぼくは時代を早く進めるのが人類にとって幸せだとはまったく思わない。
傘の話でわかるように、経済を縮小させる「社会成長」=時代を逆戻りさせる成長というものが確実に存在している。だから僕らは、資本主義でもなく、共産主義でもなく、別のあたらしい世界の話をしなくてはいけない。そのヒントは、農業にあると考えているけど、まとまらないのでそれはまた今度書こうと思う。
どれだけ「高級なワイン」よりも、運動した後の「普通の水」のほうが美味しいときちんと知ることや、高価な車を所有することよりも、風と体の動きを感じる「自転車」が大事だと気づくこと。
そういった「次の社会成長」は、次の世代が作らなくてはいけないとも思う。
世代でくくるのは申し訳ないと思うけど、「それ」は次の世代にしか、本当の意味で理解することはできない考え方だからです。自分は今31歳で、どちら側に属しているかはわからない。できれば、次の成長のあり方をつくれる側でありたいと思います。切実に。
まだまだ答えは見つからないけど、必死にその世界を作る道を模索していきたいと思います。
経済成長が、死語になるその日まで。